後奈良天皇(ごならてんのう、1497~1557)とは、日本の第105代天皇である。諱は知仁。
概要
後柏原天皇の第二皇子として生まれ、1527年に天皇に践祚したが、戦国時代の動乱の中で朝廷の財政は破綻に瀕していたため戦国大名達から献金を募り、やっとのことで10年後即位式を執り行えた。
慈悲深く清廉な人柄だったとされ、応仁の乱の後に皇室の財政が逼迫し、食べるものも着るものも事欠き宮殿も荒れ放題で、巷では疫病が流行っていた際には、「自分はなんとひどい天皇だ」と悩み、『般若心経』を金字(金泥で書いた文字)で写経して全国の一宮二十五ヶ所に納められた。
食べるものにも事欠く状態で金字の般若心経を25巻も揃え、しかも天皇の写経なのでそれなりに装飾のされたものが必要であったことから大変であったとされ、全国の一宮に勅使を立て行列を組んで届けさせて、そうして祈りを捧げるために、ありとあらゆる出費を切り詰め、25巻の般若心経を納められたという。
原文
現代訳
今年の天下大疫で万民が多く死亡した。朕は民の父母として徳が十分でなかったことに甚だ心が痛む。ひそかに般若心経を金字に写し、これを供養させる。これが疫病の妙薬となることを願う。
との悲痛な自省の言を添えられている。
ちなみに、般若心経が納められたことは天皇の側近と一宮の関係者以外は知らず、これらは全て後世に発見されたものであり、天皇自ら食を減じ「自分にできることは祈りしかない」として写経をあそばされたとされる。天文14年(1545年)8月の伊勢神宮への宣命には皇室と民の復興を祈願するなど、天皇としての責任感も強かった。
間違えて「おならてんのう」などといってはいけない。「ごならてんのう」である。
逸話
なぞなぞ集『後奈良天皇御撰名曾』を作成したことで知られる。
他にも三条西実隆や吉田兼右らに古典を、清原宣賢からは漢籍を学ぶなど学問に造詣が深く、御製の和歌も数多くあり『後奈良院御集』『後奈良院御百首』などの和歌集や、日記『天聴集』を残しており、これらは貴重な文学資料となっている。
また、将棋の駒から醉象を抜き現在の形にしたという伝承がある。
関連動画
関連商品
関連コミュニティ
関連項目
- 1
- 0pt