天皇の一覧とは、日本の歴代天皇125代123人(+7人)の一覧である。 は女帝。
神話時代
代 | 天皇 (読み) |
在位 | 父母 | |
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1 | 神武天皇![]() (じんむ) |
紀元前660年1月1日 - 紀元前585年3月11日 |
父 | ウガヤフキアエズノミコト |
母 | タマヨリヒメ | |||
初代天皇。ニニギノミコト曾孫、アマテラスオオミカミ(天照大御神)来孫とされる。実在疑問視。 | ||||
2 | 綏靖天皇![]() (すいぜい) |
紀元前581年1月8日 - 紀元前549年5月10日 |
父 | 神武天皇 |
母 | ヒメタタライスズヒメ | |||
『日本書紀』および『古事記』において事績が記されていない天皇である「欠史八代」。実在疑問視。 | ||||
3 | 安寧天皇![]() (あんねい) |
紀元前549年7月3日 - 紀元前511年12月6日 | 父 | 綏靖天皇 |
母 | イスズヨリヒメ | |||
欠史八代。実在疑問視。 | ||||
4 | 懿徳天皇![]() (いとく) |
紀元前510年2月4日 - 紀元前477年9月8日 | 父 | 安寧天皇 |
母 | ヌナソコナカツヒメ | |||
欠史八代。実在疑問視。 | ||||
5 | 孝昭天皇![]() (こうしょう) |
紀元前475年1月9日 - 紀元前393年8月5日 | 父 | 懿徳天皇 |
母 | アマトヨツヒメノミコト | |||
欠史八代。実在疑問視。 | ||||
6 | 孝安天皇![]() (こうあん) |
紀元前392年1月7日 - 紀元前291年1月9日 | 父 | 孝昭天皇 |
母 | ヨソタラシヒメ | |||
欠史八代。実在疑問視。 | ||||
7 | 孝霊天皇![]() (こうれい) |
紀元前290年1月12日 - 紀元前215年2月8日 | 父 | 孝安天皇 |
母 | オシヒメ | |||
欠史八代。実在疑問視。 | ||||
8 | 孝元天皇![]() (こうげん) |
紀元前214年1月14日 - 紀元前158年9月2日 | 父 | 孝霊天皇 |
母 | クワシヒメ | |||
欠史八代。実在疑問視。 | ||||
9 | 開化天皇![]() (かいか) |
紀元前158年11月12日 - 紀元前98年4月9日 | 父 | 孝元天皇 |
母 | ウツシコメ | |||
欠史八代。実在疑問視。 | ||||
10 | 崇神天皇![]() (すじん) |
紀元前97年1月13日 - 紀元前30年12月5日 | 父 | 開化天皇 |
母 | イカガシコメ | |||
実在可能性がある最初の天皇。昭和の「三王朝交替説」で「三輪王朝」の祖とされた。 | ||||
11 | 垂仁天皇![]() (すいにん) |
紀元前29年1月2日 - 紀元70年7月14日 | 父 | 崇神天皇 |
母 | ミマキヒメ(ミマツヒメ) | |||
実在疑問視。 | ||||
12 | 景行天皇![]() (けいこう) |
71年7月11日 - 130年11月7日 | 父 | 垂仁天皇 |
母 | ヒバスヒメ | |||
実在疑問視。日本武尊の父とされる。 | ||||
13 | 成務天皇![]() (せいむ) |
131年1月5日 - 190年6月11日 | 父 | 景行天皇 |
母 | ヤサカイリヒメ | |||
実在疑問視。 | ||||
14 | 仲哀天皇![]() (ちゅうあい) |
192年1月11日 - 200年2月6日 | 父 | 大和武尊 (ヤマトタケルノミコト) (父:景行天皇) |
母 | フタジノイリヒメノヒメミコ (父:垂仁天皇) |
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実在疑問視。 |
神功皇后摂政
代 | 天皇 (読み) |
在位 | 父母 | |
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(15) | 神功皇后 (じんぐうこうごう) |
201年11月14日 - 269年6月3日 | 父 | 息長宿禰王 (開化天皇の玄孫) |
母 | カツラギノタカヌカヒメ | |||
オキナガタラシヒメノミコト(気長足姫尊・息長帯比売命)。明治時代以前は第15代の天皇として数えられていた。 実在は疑問視されているが、日本書紀の記述等から邪馬台国女王卑弥呼もしくは豊与(壱与)、あるいはアマテラスオオミカミとの同一人物説がある。朝鮮半島へ出兵したと伝わる(三韓征伐)。 |
代 | 天皇 (読み) |
在位 | 父母 | |
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15 | 応神天皇 (おうじん) |
諱:誉田別(ほむたわけ・ほんだわけ) |
父 | 仲哀天皇 |
母 | 神功皇后 | |||
実在がほぼ確実視される最初の天皇。「倭の五王」の「讃」か。昭和の「三王朝交替説」で「河内王朝」の祖とされた。 | ||||
16 | 仁徳天皇![]() (にんとく) |
諱:大鷦鷯(おほさざき) |
父 | 応神天皇 |
母 | ナカツヒメ | |||
大山古墳の被葬者とされる。「倭の五王」の「讃」あるいは「珍」か。 | ||||
17 | 履中天皇![]() (りちゅう) |
諱:去来穂別(いざほわけ) |
父 | 仁徳天皇 |
母 | イワノヒメ | |||
「倭の五王」の「讃」か。 | ||||
18 | 反正天皇![]() (はんぜい) |
諱:瑞歯別(みずはわけ) |
父 | 仁徳天皇 |
母 | イワノヒメ | |||
「倭の五王」の「珍」か。 | ||||
19 | 允恭天皇![]() (いんぎょう) |
諱:稚子(わくご) |
父 | 仁徳天皇 |
母 | イワノヒメ | |||
「倭の五王」の「済」か。 | ||||
20 | 安康天皇 (あんこう) |
諱:穴穂(あなほ) |
父 | 允恭天皇 |
母 | オシサカノオオナカツヒメ | |||
記録上、暗殺された天皇の初例。「倭の五王」の「興」か。 | ||||
21 | 雄略天皇 (ゆうりゃく) |
諱:幼武(わかたける) |
父 | 允恭天皇 |
母 | オシサカノオオナカツヒメ | |||
稲荷山古墳出土鉄剣の「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」とされる。「倭の五王」の「武」か。 | ||||
22 | 清寧天皇 (せいねい) |
諱:白髪(しらか) |
父 | 雄略天皇 |
母 | カツラギノカラヒメ | |||
子女無し。皇族の億計王・弘計王の兄弟を探し出し、皇位を継がせる。 |
「飯豊天皇」
代 | 天皇? | 在位 | 父母 | |
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飯豊青皇女 | 484年1月 - 11月? | 父 | 履中天皇 あるいは市辺押磐皇子 |
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母 | ハエヒメ (葛城氏) あるいはクロヒメ (葦田氏) |
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イイトヨアオノヒメミコ。清寧天皇崩御から顕宗天皇即位までの間、執政(即位?)したといわれる。 『日本書紀』『古事記』では外れているが、『扶桑略記』などでは即位扱い。戦前までは「代数には含めないが天皇の尊号を贈り奉る」。現在も宮内庁では「飯豊天皇」として祭祀しているという。 |
代 | 天皇 (読み) |
在位 | 父母 | |
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23 | 顕宗天皇 (けんぞう) |
諱:来目稚子(くるめのわくご) |
父 | 市辺押磐皇子 (父:履中天皇) |
母 | ハエヒメ (葛城氏) | |||
弘計王。父の市辺押磐皇子は雄略天皇に殺され、兄の億計王とともに長年隠れ住む。兄の説得で、先に即位。 | ||||
24 | 仁賢天皇 (にんけん) |
諱:大脚(おおし)・大為(おおす) |
父 | 市辺押磐皇子 (父:履中天皇) |
母 | ハエヒメ (葛城氏) | |||
億計王。弟の崩御により即位。 | ||||
25 | 武烈天皇 (ぶれつ) |
諱:稚鷦鷯(わかさざき) |
父 | 仁賢天皇 |
母 | カスガノオオイラツメノヒメミコ (父:雄略天皇) |
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『日本書紀』では悪逆非道の暴君として描かれる(『古事記』には無し)。皇子女無く、仁徳天皇からの皇統断絶。 |
継体天皇から乙巳の変
代 | 天皇 (読み) |
在位 | 父母 | |
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26 | 継体天皇![]() (けいたい) |
507年2月4日 - 531年2月7日 | 父 | 彦主人王 (応神天皇の来孫?) |
母 | 振媛 (垂仁天皇の7世孫?) |
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越前の「男大迹王」(おおどのおおきみ)。仁賢天皇皇女の手白香皇女を皇后とし、正統性を確保。 血統の特異性から新王朝の開祖とみなし、「万世一系」を否定する説が後を絶たない。 |
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27 | 安閑天皇 (あんかん) |
諱:匂(まがり) |
父 | 継体天皇 |
母 | 尾張目子媛 | |||
異母弟の欽明天皇と皇位継承を争ったという説がある。(辛亥の変?) | ||||
28 | 宣化天皇 (せんか) |
父 | 継体天皇 | |
母 | 尾張目子媛 | |||
異母弟の欽明天皇と皇位継承を争ったという説がある。(辛亥の変?) | ||||
29 | 欽明天皇 (きんめい) |
539年12月5日 - 571年4月 | 父 | 継体天皇 |
母 | 手白香皇女 (父:仁賢天皇) |
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「仏教公伝」時の天皇。「任那日本府」の滅亡。「辛亥の変」の有無によっては即位年が変わる。 | ||||
30 | 敏達天皇 (びだつ) |
諱:他田(おさた) |
父 | 欽明天皇 |
母 | 石姫皇女 (父:宣化天皇) |
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二人目の皇后が異母妹の額田部皇女(推古天皇)。在任中で世界最古の企業である金剛組が発足。 | ||||
31 | 用明天皇 (ようめい) |
諱:池辺(いけのべ) |
父 | 欽明天皇 |
母 | 蘇我堅塩媛 (父:大臣・蘇我稲目) |
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聖徳太子こと厩戸皇子の実父。天然痘に罹患し在任2年で崩御。 | ||||
32 | 崇峻天皇 (すしゅん) |
諱:泊瀬部(はつせべ) |
父 | 欽明天皇 |
母 | 蘇我小姉君 (父:大臣・蘇我稲目) |
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蘇我馬子に擁立され、蘇我馬子に暗殺される。存在が確実で、暗殺された天皇の唯一の例。 | ||||
33 | 推古天皇 (すいこ) |
諱:額田部(ぬかたべ) |
父 | 欽明天皇 |
母 | 蘇我堅塩媛 (父:大臣・蘇我稲目) |
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神功皇后・飯豊青皇女を除けば、史上最初の女性天皇。これ以後の天皇の在位年月は確実とされる。 夫君は敏達天皇で皇子女無く、皇太子に厩戸皇子(聖徳太子)を擁立。冠位十二階。十七条憲法。遣隋使の派遣。 |
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34 | 舒明天皇 (じょめい) |
父 | 押坂彦人大兄皇子 (父:敏達天皇) |
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母 | 糠手姫皇女 (父:敏達天皇) |
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父母は異父兄妹の近親婚。皇后は宝姫王(皇極天皇)、側室に蘇我馬子の娘。最初の遣唐使派遣。 | ||||
35 | 皇極天皇 (こうぎょく) |
諱:宝(たから) |
父 | 茅渟王 (父:押坂彦人大兄皇子) |
母 | 吉備姫王 | |||
舒明天皇の皇后。中大兄皇子・大海人皇子・間人皇女の母。乙巳の変で蘇我氏本宗家が滅亡。 軽皇子(孝徳天皇)に皇位を譲る(日本初の生前譲位とされる)が、孝徳崩御後に「斉明天皇」として再即位(重祚)。 |
大化改新から藤原京時代
代 | 天皇 (読み) |
在位 | 父母 | |
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36 | 孝徳天皇 (こうとく) |
諱:軽(かる) |
父 | 茅渟王 (父:押坂彦人大兄皇子) |
母 | 吉備姫王 | |||
大化改新。難波京へ遷都。皇太子(甥)中大兄皇子と対立して憤死。子に、謀反の罪で処刑される有間皇子。 | ||||
37 | 斉明天皇 (さいめい) |
諱:宝(たから) |
父 | 茅渟王 (父:押坂彦人大兄皇子) |
母 | 吉備姫王 | |||
皇極天皇の再即位(重祚)。阿倍比羅夫の蝦夷征伐。百済救援出兵(白村江の戦い)中に九州で崩御。 | ||||
38 | 天智天皇![]() (てんち /てんじ) |
父 | 舒明天皇 | |
母 | 皇極天皇 (斉明天皇) | |||
大化改新の立役者・中大兄皇子。斉明帝崩御後、668年までは皇太子のまま執政(称制)。大津京へ遷都後に即位。 | ||||
39 | 弘文天皇![]() (こうぶん) |
諱:大友(おおとも) |
父 | 天智天皇 |
母 | 伊賀宅子娘 | |||
大友皇子。江戸時代までは、即位を示す文献・学説は豊富だったものの、『日本書紀』が天智の次を天武としていたため、公式には非即位と見做されていた。明治3年に至り「弘文天皇」の諡号を奉って、天皇に列した。 壬申の乱で敗死。 |
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40 | 天武天皇 (てんむ) |
諱:大海人(おおあまひと) |
父 | 舒明天皇 |
母 | 皇極天皇 (斉明天皇) | |||
大海人皇子。壬申の乱に勝利して即位。八色の姓・飛鳥浄御原令を制定。『日本書紀』『古事記』の編纂開始。 「日本」の国号と「天皇」の称号を最初に使用した天皇とされる。子に高市皇子(太政大臣)・草壁皇子(皇太子)・大津皇子・舎人親王(日本書紀編者)・十市皇女(弘文天皇妃)など。 |
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41 | 持統天皇![]() (じとう) |
諱:鸕野讃良(うののさらら) |
父 | 天智天皇 |
母 | 蘇我遠智娘 (父:右大臣・蘇我倉山田石川麻呂) |
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鸕野讚良皇女(うのさららひめみこ)。天武天皇の皇后。天武帝崩御後、草壁皇太子の後見として執政(称制)するが、草壁急逝のため即位。藤原京の造営(694年遷都)。697年に文武天皇へ譲位し、初の太上天皇(上皇)を称する。 | ||||
42 | 文武天皇 (もんむ) |
父 | 草壁皇子 (父:天武天皇 母:持統天皇) |
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母 | 阿部皇女 (元明天皇) | |||
軽皇子。大宝律令の制定。「大宝」(701年)以後、元号制度が確立する。遣唐使を再開。 | ||||
43 | 元明天皇![]() (げんめい) |
父 | 天智天皇 | |
母 | 蘇我姪娘 (父:右大臣・蘇我倉山田石川麻呂) |
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草壁皇子の妃。文武天皇急逝・首皇子(聖武天皇)幼少のため、中継ぎとして即位。710年、平城京遷都。 日本最初の流通貨幣・和同開珎の発行。715年に元正天皇へ譲位(史上唯一の女帝から女帝への皇位継承)。 |
奈良時代
代 | 天皇 (読み) |
在位 | 父母 | |
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44 | 元正天皇![]() (げんしょう) |
諱:氷高(ひたか) |
父 | 草壁皇子 (父:天武天皇 母:持統天皇) |
母 | 阿部皇女 (元明天皇) | |||
文武天皇の同父同母姉、氷高皇女。独身で即位した最初の女帝。首皇子幼少・政局不安のため「中継ぎの中継ぎ」として即位。養老律令の編纂開始。「三世一身の法」を施行。724年、首皇子に譲位して上皇。 | ||||
45 | 聖武天皇![]() (しょうむ) |
諱:首(おびと) |
父 | 文武天皇 |
母 | 藤原宮子 (父:右大臣・藤原不比等) |
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首皇子(おびとのみこ)。天然痘の流行、長屋王の変、藤原広嗣の乱など社会動乱多発。「墾田永年私財法」を施行。 厭世観から仏教に傾倒。東大寺盧舎那仏を造営。749年、皇太子・阿倍内親王に譲位。史上初の男性の上皇。 |
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46 | 孝謙天皇 (こうけん) |
諱:阿倍(あべ) |
父 | 聖武天皇 |
母 | 光明皇后 藤原光明子 (父:右大臣・藤原不比等) |
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阿倍内親王。聖武天皇の男子が全員早逝したため、史上唯一の女性の「皇太子」。藤原仲麻呂の奏請により、道祖王から大炊王(淳仁天皇)に皇太子を変更。橘奈良麻呂の乱。787年、譲位して上皇。 | ||||
47 | 淳仁天皇 (じゅんにん) 淡路廃帝 |
諱:大炊(おおい) |
父 | 舎人親王 (父:天武天皇) |
母 | 当麻真人山背 | |||
大炊王。藤原仲麻呂の傀儡。孝謙上皇と仲麻呂の対立(恵美押勝の乱)に巻き込まれ、廃位。淡路国へ追放され、長く「淡路廃帝」と称される。明治3年に至り「淳仁天皇」として天皇の列に復す。淡路での暗殺説あり。 | ||||
48 | 称徳天皇 (しょうとく) |
諱:阿倍(あべ) |
父 | 聖武天皇 |
母 | 光明皇后 藤原光明子 (父:右大臣・藤原不比等) |
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孝謙天皇の再即位(重祚)。弓削道鏡を重用し、道鏡への譲位を図る(宇佐八幡神託事件)など政局混乱。独身のため、天武天皇の直系血統は断絶。また、江戸時代の明正天皇に至るまで「最後の女帝」。 | ||||
49 | 光仁天皇 (こうにん) |
父 | 施基皇子 (父:天智天皇) |
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母 | 紀橡姫 (き の とちひめ) | |||
白壁王。称徳天皇の遺詔(偽造?)により皇位継承。継体天皇以後では、史上最高齢(62歳)の即位。道鏡を追放。 聖武天皇皇女の井上内親王(称徳天皇異母妹)を皇后・子の他戸親王を皇太子としていたが、呪詛疑惑により廃位・追放。山部親王(桓武天皇)を新たに立太子。 |
平安時代(9世紀)
代 | 天皇 (読み) |
在位 | 父母 | |
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50 | 桓武天皇![]() (かんむ) 柏原天皇 |
諱:山部(やまべ) |
父 | 光仁天皇 |
母 | 高野新笠 (百済・武寧王の10世孫?) |
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山部親王。井上内親王と他部親王の失脚により立太子され、光仁天皇の譲位を受け即位。はじめ784年に長岡京へ遷都を試みるも、不祥事が相次ぎ断念。794年、改めて平安京へ遷都。坂上田村麻呂の蝦夷征伐。 第3皇子・葛原親王の子孫が臣籍降下して「平」姓を賜り、「桓武平氏」を称した。 |
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51 | 平城天皇![]() (へいぜい) 奈良天皇 |
父 | 桓武天皇 | |
母 | 藤原乙牟漏 (父:内大臣・藤原良継) |
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安殿親王。病弱で、在位3年で弟の嵯峨天皇に譲位するが、寵妃の藤原薬子、その兄・仲成にそそのかされ、旧都・平城京においてクーデターを起こす(薬子の乱)が失敗。出家して、平安京に連れ戻される。 | ||||
52 | 嵯峨天皇 (さが) |
諱:神野(かみの) |
父 | 桓武天皇 |
母 | 藤原乙牟漏 (父:内大臣・藤原良継) |
|||
神野親王。はじめ平城天皇の子・高岳親王を皇太子に立てていたが、薬子の乱に連座して同親王も失脚し、異母弟の大伴親王(淳和天皇)を皇太子とする。空海・橘逸勢とともに能書家たる「三筆」のひとりに数えられる。23人の皇子がおり、うち17人を臣籍降下して「源」の姓を与えた。(嵯峨源氏。「源氏」のはじまり) | ||||
53 | 淳和天皇 (じゅんな) 西院天皇 |
諱:大伴(おおとも) |
父 | 桓武天皇 |
母 | 藤原旅子 (父:式部卿・藤原百川) |
|||
大伴親王。即位に伴い、古代からの豪族「大伴氏」が「伴氏」に改姓した(天皇の御名と同じになるのを畏れたため)。 もともと臣籍降下を望んでいたが、薬子の乱による政局の混乱のため、平城系・嵯峨系ともにすぐには皇太子を出し辛くなり、異母兄・嵯峨天皇によって立太子され、即位後に正良親王(嵯峨天皇皇子)を皇太子とした。 |
||||
54 | 仁明天皇 (にんみょう) 深草天皇 |
諱:正良(まさら) |
父 | 嵯峨天皇 |
母 | 檀林皇后 橘嘉智子 (祖父:橘奈良麻呂) |
|||
正良親王。淳和天皇の皇子・恒貞親王を皇太子に立てていたが、淳和上皇・嵯峨上皇の崩御後に「承和の変」が起こり、恒貞皇太子は失脚。藤原順子との子・道康親王が皇太子となり、順子の兄・藤原良房が大納言となって政権を握った。 | ||||
55 | 文徳天皇 (もんとく) 田邑天皇 |
諱:道康(みちやす) |
父 | 仁明天皇 |
母 | 藤原順子 (父:左大臣・藤原冬嗣) |
|||
道康親王。承和の変の結果、恒貞親王に代わって皇太子となり、仁明天皇の譲位を受け即位。寵愛する紀静子との皇子・惟喬親王への皇位継承を望んだが、実力者・藤原良房の圧力により、良房の孫に当たる惟仁親王を皇太子とすることを余儀なくされる。 | ||||
56 | 清和天皇 (せいわ) 水尾天皇 |
諱:惟仁(これひと) |
父 | 文徳天皇 |
母 | 藤原明子 (父:摂政太政大臣・藤原良房) |
|||
惟仁親王。わずか9歳で即位したため、外祖父の藤原良房が実権を握る。「応天門炎上事件」によって伴氏(大伴氏)は完全に没落し、良房が人臣としては初の摂政に就任して藤原氏の圧倒的優位が決定的となった。第6皇子・貞順親王の子、経基王が臣籍降下して源氏を賜り、武家源氏の本流「清和源氏」を称した。 | ||||
57 | 陽成天皇![]() (ようぜい) |
諱:貞明(さだあきら) |
父 | 清和天皇 |
母 | 藤原高子 (父:権中納言・藤原長良) |
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貞明親王。生後3カ月で立太子、9歳で譲位を受け即位。清和上皇崩御後、母・高子と摂政・藤原基経の対立がおき、宮中の不祥事もあって強制的に譲位させられる。廃位を正当化するためか、暴君説がある。一時臣籍降下していた宇多天皇のことを「あれは自分の臣下ではないか」と言ったという。上皇在位62年は歴代一位。 | ||||
58 | 光孝天皇![]() (こうこう) 小松天皇 |
諱:時康(ときやす) |
父 | 仁明天皇 |
母 | 藤原沢子 (父:紀伊守・藤原総継) |
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時康親王。仁明天皇の第3皇子で皇位継承からは遠いと見られていたが、陽成天皇をめぐる政局の結果、藤原基経に擁立されて55歳で即位。 | ||||
59 | 宇多天皇![]() (うだ) |
諱:定省(さだみ) |
父 | 光孝天皇 |
母 | 班子女王 (祖父:桓武天皇) |
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光孝天皇の第7皇子で、一時源氏として臣籍降下していた「源定省(さだみ)」。光孝天皇崩御にあたり、藤原基経の強硬論で皇籍復帰して即位。基経の関白就任にあたって「阿衡事件」が起きる。藤原氏の勢力に対抗するため、菅原道真を重用。894年、遣唐使を廃止する。 |
平安時代(10世紀)
代 | 天皇 (読み) |
在位 | 父母 | |
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60 | 醍醐天皇 (だいご) |
諱:敦仁(あつひと・あつぎみ) |
父 | 宇多天皇 |
母 | 藤原胤子 (父:内大臣・藤原高藤) |
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父・宇多天皇が臣籍降下していた時期に生まれ、父帝の皇籍復帰により皇族となる。父帝の譲位により即位。 関白を置かず、藤原時平を左大臣・菅原道真を右大臣として「延喜の治」と称される親政を行うが、時平の讒言により菅原道真を追放する。清涼殿落雷事件など「道真の祟り」を恐れて体調を崩し、崩御。『古今和歌集』の勅撰を命じる。 |
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61 | 朱雀天皇 (すざく) |
諱:寛明(ゆたあきら) |
父 | 醍醐天皇 |
母 | 藤原穏子 (父:関白太政大臣・藤原基経) |
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父帝の崩御により、わずか8歳で即位。伯父の藤原忠平(基経4男・時平弟)が摂政・関白となる。 935年および36年、関東で平将門・瀬戸内で藤原純友が反乱を起こし(承平天慶の乱)、937年には富士山の噴火もあり、内乱と天変地異で早々に政治への意欲を無くして譲位。 |
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62 | 村上天皇 (むらかみ) |
諱:成明(なりあきら) |
父 | 醍醐天皇 |
母 | 藤原穏子 (父:関白太政大臣・藤原基経) |
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兄帝の譲位により即位。949年に関白・忠平が死去して以後は、摂政・関白を置かない親政を行う(天暦の治)。 この天皇以後、江戸後期の光格天皇に至るまで、追号は「~天皇」ではなく「~院」とされた(安徳・後醍醐を除く)。 第7皇子・具平親王の子(源師房)から臣籍降下した系統が、公家源氏の主流「村上源氏」となる。 |
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63 | 冷泉天皇 (れいぜい) |
父 | 村上天皇 | |
母 | 藤原安子 (父:右大臣・藤原師輔) |
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異母兄がいたが、大伯父・実頼(師輔兄)の威光が勝って即位。実頼が関白となる。奇行が目立ったため、早々と皇太子(皇太弟)擁立が模索されたが、その政争により左大臣・源高明が失脚し(安和の変)、藤原氏による摂関の独占が確定した。在位2年で譲位。 | ||||
64 | 円融天皇 (えんゆう) |
諱:守平(もりひら) |
父 | 村上天皇 |
母 | 藤原安子 (父:右大臣・藤原師輔) |
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安和の変などの政争の結果、兄・為平親王を差し置いて即位する。 関白・実頼の没後、藤原氏では実頼・師輔の子ら(頼忠/伊尹・兼通・兼家)の間で摂関・外戚の地位をめぐって権力闘争が繰り広げられ、円融帝の治世はほぼこの闘争に費やされた。結局、帝の唯一の子だった懐仁親王(一条天皇)の立太子を条件に、甥の花山天皇へ譲位。 |
||||
65 | 花山天皇 (かざん) |
諱:師貞(もろさだ) |
父 | 冷泉天皇 |
母 | 藤原懐子 (父:摂政太政大臣・藤原伊尹) |
|||
円融帝の即位時に摂政・伊尹の威光で立太子されたが、即位時に伊尹は死去していたため有力な後ろ盾が無く、譲位をめぐる兼家の策動を防げなかった。出家にまつわる、兼家・道兼親子の陰謀が有名。法皇となってからも、藤原道長・伊周の対立に巻き込まれる(花山院誤射事件・長徳の変)など、多難な人物。 | ||||
66 | 一条天皇 (いちじょう) |
諱:懐仁(やすひと・かねひと) |
父 | 円融天皇 |
母 | 東三条院 藤原詮子 (父:摂政太政大臣・藤原兼家) |
|||
6歳で即位。外祖父・兼家は念願の摂政となり、以後は兼家の子孫による摂政・関白の独占が確定した。一条帝の中宮が藤原定子(父:関白・道隆)および藤原彰子(父:摂政・道長)であり、それぞれについた女房の清少納言・紫式部をはじめとする才女たちによる宮廷文化の華やかな時代であった。 |
平安時代(11世紀)
代 | 天皇 (読み) |
在位 | 父母 | |
---|---|---|---|---|
67 | 三条天皇![]() (さんじょう) |
諱:居貞(おきさだ・いやさだ) |
父 | 冷泉天皇 |
母 | 藤原超子 (父:摂政太政大臣・藤原兼家) |
|||
冷泉天皇の第2皇子、花山天皇の異母弟。この時期は冷泉院系統と円融院系統での皇位送立が図られており、一条帝より年上であったにもかかわらず皇太子に立てられた。一条帝崩御により即位したものの、最高実力者・藤原道長との関係が悪く、持病の眼病を理由として譲位に追い込まれる。 | ||||
68 | 後一条天皇 (ごいちじょう) |
諱:敦成(あつひら) |
父 | 一条天皇 |
母 | 上東門院 藤原彰子 (父:摂政左大臣・藤原道長) |
|||
一条天皇の第2皇子。藤原道長の外孫として初の天皇であり、外祖父として摂政に就任した道長の権勢はゆるぎないものとなった。道長の4女で、天皇にとっては叔母にあたる藤原威子が中宮となり、彰子(一条)・妍子(三条)・威子と三代の帝への立后を実現した道長が、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の」の歌を詠ったのはこのときである。 | ||||
69 | 後朱雀天皇 (ごすざく) |
諱:敦良(あつなが) |
父 | 一条天皇 |
母 | 上東門院 藤原彰子 (父:摂政左大臣・藤原道長) |
|||
一条天皇の第3皇子。もともと後一条帝の皇太子には、三条帝の子・敦明親王が立てられていたが、一条帝系での皇位独占を図る道長の圧力で辞退。叔母の嬉子(道長6女)が入内して後冷泉帝を産んだが、直後に死去。のち、敦明親王の妹で、皇后となった禎子内親王所生の後三条帝により一条系・三条系が統合されるという皮肉な結果となる。 | ||||
70 | 後冷泉天皇 (ごれいぜい) |
父 | 後朱雀天皇 | |
母 | 藤原嬉子 (父:摂政左大臣・藤原道長) |
|||
藤原道長を外祖父とする最後の天皇であり、摂関家嫡流の女性による皇統を維持するべく関白・頼通、左大臣・教通らが続々と娘を入内させ、3人の中宮・皇后が並立するという異常事態にもなったが、ついに期待された男子の誕生は無く、異母弟で、摂関家を外戚としない後三条天皇が即位することとなる。在位中、奥州では「前九年の役」が勃発。 | ||||
71 | 後三条天皇 (ごさんじょう) |
諱:尊仁(たかひと) |
父 | 後朱雀天皇 |
母 | 陽明門院 禎子内親王 (父:三条天皇) |
|||
母方の曽祖父が藤原道長であるものの、摂関家嫡流からは縁遠く、長い皇太子時代では関白・頼通らにより不遇を囲っていたが、摂関家非主流の藤原能信(頼通異母弟)の支援で即位を果たす。即位後は、藤原氏の非主流派や源氏・大江氏を登用し、荘園整理令などを打ち出して「延久の善政」と呼ばれる政治を行った。 | ||||
72 | 白河天皇![]() (しらかわ) |
諱:貞仁(さだひと) |
父 | 後三条天皇 |
母 | 藤原茂子 (父:権中納言・藤原公成) |
|||
伊東四朗。後三条天皇に続く、摂関家を外戚としない天皇。上皇・法皇として政権を執る「院政」のはじまりとして有名。 皇統からの隔絶と家中内紛で弱体化する摂関家に代わって天下の権を握り、中小貴族を側近として専制政治を行う。 源義家、平正盛らの武士が力をつけ始めた時代でもある。奥州では「後三年の役」が起こる。 |
||||
73 | 堀河天皇 (ほりかわ) |
諱:善仁(たるひと) |
父 | 白河天皇 |
母 | 藤原賢子 (父:右大臣・源顕房) (義父:関白太政大臣・藤原師実) |
|||
後三条天皇は白河天皇のあとを、その弟の実仁親王・輔仁親王へ継承させるよう遺言していたが、自らの子孫への継承を望む白河帝はそれを無視し、実子を即位させた。このことに陽明門院はひどく不満だったといわれる。堀河帝は資質に優れていたが、政治の実権は白河院が握っていた。29歳の若さで崩御。 |
平安時代(12世紀)
代 | 天皇 (読み) |
在位 | 父母 | |
---|---|---|---|---|
74 | 鳥羽天皇![]() (とば) |
諱:宗仁(むねひと) |
父 | 堀河天皇 |
母 | 藤原苡子 (父:大納言・藤原実季) |
|||
三上博史。生後7か月で立太子、5歳で即位。白河院が引き続き院政を執り、崇徳帝が誕生するとたちまち譲位を迫られて上皇となる。だが白河院が崩御すると政治の実権を握り、崇徳・近衛・後白河の三代にわたって院政を行った。出生疑惑から崇徳院を疎んじ、これに摂関家や源氏・平氏の権力闘争も絡んで、のちの保元の乱の原因を作った。 | ||||
75 | 崇徳天皇![]() (すとく) |
諱:顕仁(あきひと) |
父 | 鳥羽天皇 (※白河法皇?) |
母 | 待賢門院 藤原璋子 (父:権大納言・藤原公実) |
|||
井浦新。公式には鳥羽天皇の長子だが、白河院の御落胤という噂があり、鳥羽院は「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたといわれる。実子の重仁親王ではなく、弟の近衛帝・後白河帝へ譲位させられたことは大きな遺恨となり、最後は藤原頼長らとともに挙兵におよんで保元の乱を起こした。乱に敗れて讃岐へ追放。死後は怨霊として恐れられた。 | ||||
76 | 近衛天皇![]() (このえ) |
諱:体仁(なりひと) |
父 | 鳥羽天皇 |
母 | 美福門院 藤原得子 (父:権中納言・藤原長実) |
|||
鳥羽院の第9皇子だが、生母の美福門院が鳥羽院に寵愛されていたため、また鳥羽院と崇徳帝の対立関係も絡んで他の異母兄姉を差し置いて、わずか2歳で即位。鳥羽院が引き続き院政を執った。しかし体質が弱く、15歳で崩御。崇徳院の子・重仁親王への皇位継承が考えられたが、あくまで崇徳院を排斥する鳥羽院は、後白河帝を即位させた。 | ||||
77 | 後白河天皇![]() (ごしらかわ) |
諱:雅仁(まさひと) |
父 | 鳥羽天皇 |
母 | 待賢門院 藤原璋子 (父:権大納言・藤原公実) |
|||
ゴッシー。皇位継承と縁の無い人物ニートと思われていたが、鳥羽院政下の権力闘争の結果、思いがけず即位する。 貴族の衰退、保元・平治の乱、平清盛の台頭と源平合戦、源頼朝による武士政権の誕生という激動の時代のなかで、上皇・法皇として院政を執り、政界の難局を泳ぎ切った。「今様」の歌集『梁塵秘抄』を残す。 |
||||
78 | 二条天皇![]() (にじょう) |
諱:守仁(もりひと) |
父 | 後白河天皇 |
母 | 源懿子 (父:大納言・藤原経実) (義父:左大臣・源有仁) |
|||
18歳で即位するも、後白河上皇による院政と親子関係の悪さから幽閉されていた時期もあったが、平清盛を味方に付けて1161年に上皇派の側近らの解任を実現させ、一時的に天皇親政を実現した。 | ||||
79 | 六条天皇![]() (ろくじょう) |
諱:順仁(のぶひと) |
父 | 二条天皇 |
母 | 伊岐致遠の娘 | |||
二条天皇が病に倒れたため、生後7か月で天皇即位。幼年のため、実質の政務は近衛基実(近衛家の祖)が行っていた。在位2年8か月で叔父の憲仁親王(高倉天皇)に譲位し、1176年に11歳の若さで崩御。 | ||||
80 | 高倉天皇![]() (たかくら) |
父 | 後白河天皇 | |
母 | 建春門院 平滋子 (義兄:太政大臣・平清盛) |
|||
父・後白河法皇の画策で六条天皇から譲位されるも、後白河法皇の院政が行われた。1180年に子の安徳天皇に譲位し、政変により幽閉された後白河法皇に代わり院政を行うも、病に倒れ1181年に19歳で崩御。 | ||||
81 | 安徳天皇![]() (あんとく) |
諱:言仁(ときひと) |
父 | 高倉天皇 |
母 | 建礼門院 平徳子 (父:太政大臣・平清盛) |
|||
1歳で即位。即位直後に福原遷都が行われるも、半年後には京都に再遷都。1183年に平家と共に都落ちし、1184年に壇ノ浦にて入水し6歳で崩御。平家物語や義経千本桜などの作品では女児として描かれている。 | ||||
82 | 後鳥羽天皇![]() (ごとば) |
諱:尊成(たかなり・たかひら) |
父 | 高倉天皇 |
母 | 七条院 坊門殖子 (父:修理大夫・坊門信隆) |
|||
1183年の平家都落ちの後に即位したため、2年ほど在位重複期間が存在している。1192年までは後白河院の院政が行われ、その後は関白・九条兼実が中心となった。1198年に子・為仁親王に譲位し後鳥羽院政を行っていった。 |
鎌倉時代
代 | 天皇 (読み) |
在位 | 父母 | |
---|---|---|---|---|
83 | 土御門天皇 (つちみかど) |
諱:為仁(ためひと) |
父 | 後鳥羽天皇 |
母 | 承明門院 源在子 (義父:内大臣・土御門通親) |
|||
3歳で父・後鳥羽天皇から譲位されるも、治世は事実上の後鳥羽院政だった。1210年に父から退位を迫られ、異母弟の盛成親王に譲位。1221年の承久の乱には関与なしとして処罰されなかったが、父が流されたにも関わらず、自分だけが京にいることを忍びないとして、自らの意志で土佐国に流れた。 | ||||
84 | 順徳天皇![]() (じゅんとく) |
諱:守成(もりなり) |
父 | 後鳥羽天皇 |
母 | 修明門院 高倉重子 (父:式部権少輔・藤原範季) (母方祖父:権中納言・平教盛) |
|||
13歳で異母兄の土御門天皇から譲位を受けるも、前帝同様、後鳥羽院政が続いた。在位中に有職故実の解説書である『禁秘抄』を記した。父・後鳥羽院の討幕運動(承久の乱)に参加するため、1221年に懐成親王に譲位するも、乱は失敗して佐渡に流され、その地で崩御された。 | ||||
85 | 仲恭天皇![]() (ちゅうきょう) |
諱:懐成(かねなり) |
父 | 順徳天皇 |
母 | 東一条院 九条立子 (父:摂政太政大臣・九条良経) |
|||
4歳で父・順徳天皇から譲位されるも、承久の乱の発生と天皇方の敗北により僅か78日で廃位となり、母の生家の九条道家邸宅に移り、1234年に17歳で崩御された。 | ||||
86 | 後堀河天皇 (ごほりかわ) |
諱:茂仁(とよひと) |
父 | 守貞親王 (後高倉院) (父:高倉天皇 母:七条院殖子) |
母 | 北白川院 持明院陳子 (父:権中納言・持明院基家) (母方祖父:大納言・平頼盛) |
|||
10歳と若く病弱な体で即位したため、父の守貞親王による院政が行われた。1232年に秀仁親王に譲位し、院政を行うも2年後に23歳で崩御。 | ||||
87 | 四条天皇![]() (しじょう) |
諱:秀仁(みつひと) |
父 | 後堀河天皇 |
母 | 藻壁門院 九条竴子 (父:関白左大臣・九条道家) |
|||
2歳で父・後堀河天皇から譲位を受けるも、わずか2年で後堀河上皇が崩御されたため、外祖父の九条道家が政務を行った。石に足を滑らせて頭を打ち、その3日後に10歳で崩御された。 | ||||
88 | 後嵯峨天皇 (ごさが) |
諱:邦仁(くにひと) |
父 | 土御門天皇 |
母 | 源通子 (父:左近衛中将・源通宗) |
|||
(作成中) | ||||
89 | 後深草天皇 (ごふかくさ) |
諱:久仁(ひさひと) |
父 | 後嵯峨天皇 |
母 | 大宮院 西園寺姞子 (父:太政大臣・西園寺実氏) |
|||
(作成中) | ||||
90 | 亀山天皇 (かめやま) |
諱:恒仁(つねひと) |
父 | 後嵯峨天皇 |
母 | 大宮院 西園寺姞子 (父:太政大臣・西園寺実氏) |
|||
(作成中) | ||||
91 | 後宇多天皇 (ごうだ) |
諱:世仁(よひと) |
父 | 亀山天皇 |
母 | 京極院 洞院佶子 (父:左大臣・洞院実雄) |
|||
(作成中) | ||||
92 | 伏見天皇 (ふしみ) |
諱:熈仁(ひろひと) |
父 | 後深草天皇 |
母 | 玄輝門院 洞院愔子 (父:左大臣・洞院実雄) |
|||
(作成中) | ||||
93 | 後伏見天皇 (ごふしみ) |
諱:胤仁(たねひと) |
父 | 伏見天皇 |
母 | 五辻経子 (父:左近衛中将・五辻経氏) |
|||
(作成中) | ||||
94 | 後二条天皇 (ごにじょう) |
諱:邦治(くにはる) |
父 | 後宇多天皇 |
母 | 西華門院 堀川基子 (父:内大臣・堀川具守) |
|||
(作成中) | ||||
95 | 花園天皇![]() (はなぞの) |
諱:富仁(とみひと) |
父 | 伏見天皇 |
母 | 顕親門院 洞院季子 (父:左大臣・洞院実雄) |
|||
(作成中) |
南北朝時代
南朝
代 | 天皇 (読み) |
在位 | 父母 | |
---|---|---|---|---|
96 南1 |
後醍醐天皇![]() (ごだいご) |
諱:尊治(たかはる) |
父 | 後宇多天皇 |
母 | 談天門院 五辻忠子 (父:参議・五辻忠継) (義父:内大臣・花山院師継) |
|||
(作成中) | ||||
97 南2 |
後村上天皇 (ごむらかみ) |
諱:義良(のりよし) |
父 | 後醍醐天皇 |
母 | 新待賢門院 阿野廉子 (父:右近衛中将・阿野公廉) |
|||
(作成中) | ||||
98 南3 |
長慶天皇 (ちょうけい) |
諱:寛成(ゆたなり) |
父 | 後村上天皇 |
母 | 嘉喜門院 (藤原勝子?) (父:関白左大臣・近衛経忠?) |
|||
(作成中) | ||||
99 南4 |
後亀山天皇 (ごかめやま) |
諱:煕成(ひろなり) |
父 | 後村上天皇 |
母 | 嘉喜門院 (藤原勝子?) (父:関白左大臣・近衛経忠?) |
|||
(作成中) |
北朝
代 | 天皇 (読み) |
在位 | 父母 | |
---|---|---|---|---|
北1 | 光厳天皇 (こうごん) |
諱:量仁(かずひと) |
父 | 後伏見天皇 |
母 | 広義門院 西園寺寧子 (父:左大臣・西園寺公衡) |
|||
(作成中) | ||||
北2 | 光明天皇 (こうみょう) |
諱:豊仁(ゆたひと) |
父 | 後伏見天皇 |
母 | 広義門院 西園寺寧子 (父:左大臣・西園寺公衡) |
|||
(作成中) | ||||
北3 | 崇光天皇 (すこう) |
諱:益仁(ますひと)→興仁(おきひと) |
父 | 光厳天皇 |
母 | 陽禄門院 正親町三条秀子 (父:内大臣・正親町三条公秀) |
|||
(作成中) | ||||
北4 | 後光厳天皇 (ごこうごん) |
諱:弥仁(いやひと) |
父 | 光厳天皇 |
母 | 陽禄門院 正親町三条秀子 (父:内大臣・正親町三条公秀) |
|||
(作成中) | ||||
北5 | 後円融天皇 (ごえんゆう) |
諱:緒仁(おひと) |
父 | 後光厳天皇 |
母 | 崇賢門院 広橋仲子 (義父:左大臣・広橋兼綱) |
|||
(作成中) |
室町時代
代 | 天皇 (読み) |
在位 | 父母 | |
---|---|---|---|---|
100 北6 |
後小松天皇 (ごこまつ) |
1392年10月5日 - 1412年8月29日 諱:幹仁(もとひと) |
父 | 後円融天皇 |
母 | 通陽門院 三条厳子 (父:内大臣・三条公忠) |
|||
(作成中) | ||||
101 | 称光天皇 (しょうこう) |
諱:躬仁(みひと)→實仁(みひと) |
父 | 後小松天皇 |
母 | 光範門院 日野資子 (父:権大納言・日野資教) |
|||
(作成中) | ||||
102 | 後花園天皇 (ごはなぞの) |
諱:彦仁(ひこひと) |
父 | 伏見宮貞成親王 (後崇光院) (祖父:崇光天皇) |
母 | 敷政門院 庭田幸子 (父:右近衛少将・庭田経有) |
|||
(作成中) | ||||
103 | 後土御門天皇 (ごつちみかど) |
諱:成仁(ふさひと) |
父 | 後花園天皇 |
母 | 嘉楽門院 大炊御門信子 (義父:内大臣・大炊御門信宗) |
|||
(作成中) |
戦国・織豊時代
代 | 天皇 (読み) |
在位 | 父母 | |
---|---|---|---|---|
104 | 後柏原天皇 (ごかしわばら) |
諱:勝仁(かつひと) |
父 | 後土御門天皇 |
母 | 蒼玉門院 庭田朝子 (父:権大納言・庭田長賢) |
|||
(作成中) | ||||
105 | 後奈良天皇![]() (ごなら) |
諱:知仁(ともひと) |
父 | 後柏原天皇 |
母 | 豊楽門院 勧修寺藤子 (父:権大納言・勧修寺教秀) |
|||
(作成中) | ||||
106 | 正親町天皇 (おおぎまち) |
諱:方仁(みちひと) |
父 | 後奈良天皇 |
母 | 吉徳門院 万里小路栄子 (父:参議・万里小路賢房) |
|||
(作成中) | ||||
107 | 後陽成天皇 (ごようぜい) |
諱:和仁(かずひと)→周仁(かたひと) |
父 | 誠仁親王 (陽光院) (父:正親町天皇) |
母 | 新上東門院 勧修寺晴子 (父:権大納言・勧修寺晴秀) |
|||
(作成中) |
江戸時代
代 | 天皇 (読み) |
在位 | 父母 | |
---|---|---|---|---|
108 | 後水尾天皇 (ごみずのお) |
諱:政仁(ことひと) |
父 | 後陽成天皇 |
母 | 中和門院 近衛前子 (父:関白左大臣・近衛前久) (義父:関白太政大臣・豊臣秀吉) |
|||
(作成中) | ||||
109 | 明正天皇 (めいしょう) |
諱:興子(おきこ) |
父 | 後水尾天皇 |
母 | 東福門院 徳川和子 (父:征夷大将軍・徳川秀忠) |
|||
(作成中) | ||||
110 | 後光明天皇 (ごこうみょう) |
諱:紹仁(つぐひと) |
父 | 後水尾天皇 |
母 | 壬生院 園光子 (父:権大納言・園基任) |
|||
(作成中) | ||||
111 | 後西天皇 (ごさい) |
諱:良仁(ながひと) |
父 | 後水尾天皇 |
母 | 逢春門院 櫛筍隆子 (父:左近衛中将・櫛笥隆致) |
|||
(作成中) | ||||
112 | 霊元天皇 (れいげん) |
諱:識仁(さとひと) |
父 | 後水尾天皇 |
母 | 新広義門院 園国子 (父:権大納言・園基音) |
|||
(作成中) | ||||
113 | 東山天皇![]() (ひがしやま) |
父 | 霊元天皇 | |
母 | 敬法門院 松木宗子 (父:内大臣・松木宗条) |
|||
(作成中) | ||||
114 | 中御門天皇![]() (なかみかど) |
諱:慶仁(やすひと) |
父 | 東山天皇 |
母 | 新崇賢門院 櫛筍賀子 (父:内大臣・櫛筍隆賀) |
|||
(作成中) | ||||
115 | 桜町天皇![]() (さくらまち) |
諱:昭仁(てるひと) |
父 | 中御門天皇 |
母 | 新中和門院 近衛尚子 (父:摂政太政大臣・近衛家熈) |
|||
(作成中) | ||||
116 | 桃園天皇![]() (ももぞの) |
諱:遐仁(とおひと) |
父 | 桜町天皇 |
母 | 開明門院 姉小路定子 (父:参議・姉小路実武) |
|||
(作成中) | ||||
117 | 後桜町天皇 (ごさくらまち) |
諱:智子(としこ) |
父 | 桜町天皇 |
母 | 青綺門院 二条舎子 (父:関白左大臣・二条吉忠) |
|||
(作成中) | ||||
118 | 後桃園天皇 (ごももぞの) |
諱:英仁(ひでひと) |
父 | 桃園天皇 |
母 | 恭礼門院 一条富子 (父:関白左大臣・一条兼香) |
|||
(作成中) | ||||
119 | 光格天皇 (こうかく) |
諱:師仁(もろひと)→兼仁(かねひと) |
父 | 閑院宮典仁親王 (慶光天皇) (祖父:東山天皇) |
母 | 大江磐与 (鳥取の医者・岩室宗賢の娘) |
|||
(作成中) | ||||
120 | 仁孝天皇 (にんこう) |
諱:恵仁(あやひと) |
父 | 光格天皇 |
母 | 東京極院 勧修寺婧子 (父:権大納言・勧修寺経逸) |
|||
(作成中) | ||||
121 | 孝明天皇![]() (こうめい) |
諱:統仁(おさひと) |
父 | 仁孝天皇 |
母 | 新待賢門院 正親町雅子 (父:権大納言・正親町実光) |
|||
(作成中) |
近現代
代 | 天皇 (読み) |
在位 | 父母 | |
---|---|---|---|---|
122 | 明治天皇![]() (めいじ) |
諱:睦仁(むつひと) |
父 | 孝明天皇 |
母 | 一位局 中山慶子 (父:権大納言・中山忠能) |
|||
(作成中) | ||||
123 | 大正天皇![]() (たいしょう) |
諱:嘉仁(よしひと) |
父 | 明治天皇 |
母 | 二位局 柳原愛子 (父:議奏・柳原光愛) |
|||
(作成中) | ||||
124 | 昭和天皇![]() (しょうわ) |
父 | 大正天皇 | |
母 | 貞明皇后 九条節子 (父:公爵・九条道孝) |
|||
(作成中) | ||||
125 | 上皇明仁![]() |
諱:明仁(あきひと) |
父 | 昭和天皇 |
母 | 香淳皇后 久邇宮良子 (父:久邇宮邦彦王) |
|||
(作成中) | ||||
126 | 今上天皇![]() |
諱:徳仁(なるひと) |
父 | 上皇明仁 |
母 | 上皇后 正田美智子 (父:日清製粉会長・正田英三郎) |
|||
(作成中) |
関連項目
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