楠木正行(?~1348)とは、南北朝時代に活躍した武将である。
概要
生年ははっきりしない。活躍した期間が1年足らずという短さにもかかわらず、彼の活躍が南北朝双方に与えた影響は大きく、父・楠木正成の「大楠公」にならって「小楠公」と呼ばれることもある。
彼の最初の出番は楠木正成が討ち死にした湊川合戦の直前である。討ち死にを覚悟した正成は桜井の駅で、最後まで供をしようとする楠木正行に対し、南朝に忠義を尽くすように言って聞かせ別れを告げた。
この後楠木正行の生涯はひたすら北朝への敵討ちのために臥薪嘗胆する日々であり、河内の国司・守護として活動した文書が少数ながらも残されている。後醍醐天皇亡き後動揺が広がる南朝で、彼は支えになったのである。
そしてついに1347年8月藤井寺合戦で初陣を遂げる。これに対し足利尊氏は河内守護・細川顕氏らを出陣させるが、彼らは敗北し這々の体で京都へと逃げ帰る。続いて顕氏は雪辱を果たすべく山名時氏とともに楠木正行への再戦を果たすが、再び敗北。時氏は3人の弟を失い顕氏に至っては一戦も交えることなく逃げ帰ったのである。細川顕氏は建武政権への離反の時から尊氏を支えた歴戦の名将だったのだが、その彼ですらこのありさまだったのである。
そしてついに幕府の首脳陣は自らの懐刀である高師直、高師泰兄弟を送り込む。こうして1348年正月の四条畷の戦いが始まった。激戦の末、楠木正行、弟の楠木正時、従兄弟の和田賢秀らは討ち死にし、師直は勢いに乗じて吉野を焼き払い南朝を賀名生まで追い落とす。そして北朝は楠木正成の再来ともいうべき正行の快進撃が終わったことに安堵した。
以後南朝はさらにその弟である楠木正儀が主力として活動していく一方、北朝では高一族の権力拡大が顕著となり観応の擾乱へとつながっていくのである。
関連商品
関連項目
- 0
- 0pt