概要
この時代は教科書ですら大幅な簡略化で説明している時代であるため本記事もごく簡単な説明で終える。
足利尊氏が擁立する京都の光明天皇(北朝)と吉野の後醍醐天皇(南朝)が並び立った時(一天両帝南北京。1336年)が南北朝の始まり、明徳の和約による南北朝合一(1392年)が終わりである。
しかし南北朝に至るまでには後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕が密接にかかわっており、一連の政治情勢を説明するために後醍醐天皇が引き起こした元弘の乱(1331年)を南北朝に含むことも多い。
本項もこれに倣い元弘の乱より始める。
元弘の乱 ~鎌倉幕府滅亡まで~
汚職と社会制度の未熟さから鎌倉幕府の国家運営が行き詰っていた鎌倉末期、天皇親政を目指す後醍醐天皇は食い詰め者の公家や非主流派の仏僧、当時台頭してきた悪党などをエグい手腕でまとめ上げ鎌倉幕府倒幕を進めていく。
1331年(元弘元年)の初めの蜂起は失敗し後醍醐天皇は捕えられ隠岐に流されるものの、幕府の追及を免れ吉野の山中に潜んでいた後醍醐天皇の皇子護良親王と楠木正成は翌1332年(元弘2年/正慶元年)に再び蜂起。幕府は鎮圧のため再度大軍を送り込むも、わずか1000人しか詰めていない楠木正成の千早城を攻め落とせずにいた。
そんな中、1333年(元弘3年/正慶2年)後醍醐天皇は隠岐から脱出、悪党の赤松円心らを率いて再び倒幕を掲げる。倒幕の機運が高まる中、反乱鎮圧のため近畿にいた御家人の足利高氏も後醍醐天皇に寝返り、鎌倉幕府の京都の根拠地である六波羅探題を攻略してしまう。さらに新田義貞が関東で挙兵。幕府に反旗を翻した御家人達をまとめ上げ数万の軍勢となって進軍し、鎌倉を攻め落とした。ここに鎌倉幕府は滅亡する。
皇族、御家人、悪党など
身分の異なる者たちが力を合わせ
ついに巨悪の鎌倉幕府は倒れた。
新しい時代の幕開けである。
幕府が国政を取り仕切る
(だが実際に取り仕切っていたのは幕府の長である将軍ではなく、執権とかその周辺の有象無象)
いびつな社会構造は本来あるべき姿に戻る。
徳のある天皇の親政によって国が導かれるのである。
これから世は正され民は豊かになり国は繁栄していく
…はずであった。
建武の新政 ~南北朝成立まで~
後醍醐天皇は京都にて建武の新政と呼ばれる新政権の運営を始める。「延喜・天暦の世」と呼ばれる古代の政治を理想として掲げていた後醍醐天皇は同時に宋学を修め高い学識を持っていた。後醍醐天皇の治世は過去への回帰を掲げつつ当時最新鋭の中国の専制政治に倣い君主権限を強め、家格で固定されていた官職を打破し実力主義とする政治体制を目指した復古と革新が合わさったものであった。
しかし後醍醐天皇は皇統の主流としてあった持明院統と大覚寺統の内、大覚寺統の出身で持明院統との対立は不可避であり、実際に1335年(建武2年)には持明院統による後醍醐天皇暗殺未遂事件が起こっている。さらに大覚寺統のなかでも傍流の生まれである上、世襲の官職を奪われるとあって公家からも反発を受けており朝廷の中でも政治基盤が弱かったが、それにも構わず今後は大覚寺統だけで皇統を世襲していく意思を露にする。
その上鎌倉幕府に政治の主導権を握られてから1世紀ほど経っており、全国を掌握するだけの官僚組織が脆弱であるにも関わらず鎌倉幕府中枢の官僚組織を受け継がなかった。鎌倉幕府が全国にばら撒いた守護、地頭たちの制御ができないのである。この状態で専制政治などまともに履行できるはずもない。やがて後醍醐天皇の稚拙な執政が明らかとなり民心を失うことになる。日本史の教科書でも有名な二条河原の落書はこの時期の世相を風刺したものである。
さらにこのタイミングで、北条家最後の当主であった北条高時の遺児北条時行を奉じた鎌倉幕府残党が蜂起。鎌倉を抑えてしまう(中先代の乱)。このときすでに失脚し鎌倉で蟄居していた護良親王は残党に担ぎあげられる事を恐れた足利尊氏(後醍醐天皇から偏諱を受けて改名)の弟、足利直義の差し金によって暗殺されている。足利尊氏は後醍醐天皇の勅許を待たず関東へ出兵しこれを鎮圧する(が北条時行は取り逃がした。時行はこの後それぞれ短期間ながらも更に二度も鎌倉を奪還する)も、関東に居座り独自政権を樹立する動きを見せた。後醍醐天皇はこれを見過ごさず足利討伐を号令する。
驚いた足利尊氏は出家して事態を収拾しようとするも後醍醐天皇は追及の手を緩めなかったため、後醍醐天皇に反逆することを決意。新田義貞を打ち破り京都まで進軍する。しかし奥州より後醍醐天皇方の北畠顕家が驚異的な進軍速度で加勢すると劣勢となり足利尊氏は京都を脱出し九州へと逃れた。
後醍醐天皇は足利尊氏の追撃を新田義貞に命じるも播磨の赤松円心に阻まれる。その間に足利尊氏は九州で勢力を立て直し持明院統である光厳上皇の院宣を根拠に再び京都へ進軍を開始。新田義貞、楠木正成がこれに応戦するも湊川の戦いで敗北。楠木正成は自刃する。再び京都を抑えた足利尊氏は優勢を保ったため、窮した後醍醐天皇は持明院統の光明天皇に譲位することで足利尊氏と和睦することになる。ところが和睦が成った直後に後醍醐天皇は京都を脱出し吉野に逃れ南朝を樹立する。
ここに京都の光明天皇と吉野の後醍醐天皇の両帝が並び立つ南北朝の時代に突入するのである。
1336年(建武3年/延元元年)のことであった。
端的にこれまでの流れをいえば大体ゴダイゴ後醍醐のせいと思っておいていい。
南北朝のはじまり ~観応の擾乱まで~
足利尊氏は全国の武士をまとめ上げられる器であると味方どころか敵方の楠木正成からもその能力を認められる人物であったが、このころ当人は天下を取った絶頂期であるにも関わらず「早く隠居したい」と考えていた。この足利尊氏は劣勢になると出家や切腹をしようとしたり、「国政に俺がいてはならないから神様早く死なせて」との書き初めを毎年書くなど、周囲の声望をよそに本人は国政の重圧に耐えられるような精神の持ち主ではなかったのである。
後醍醐天皇に叛いたことも悔いており弟の足利直義に国政を一任しようとしたものの、足利尊氏の下に集まっていた周囲がそれを許すはずもなく、尊氏は1338年(建武5年/延元3年)に征夷大将軍となり室町幕府を開いて軍のトップとなり、直義は幕府の行政を取り仕切る。「両将軍」と呼ばれる二頭政治が確立する。
一方南朝は越前の新田義貞や奥州の北畠顕家が北朝に猛攻を仕掛けるもののほどなく討ち死する。
後醍醐天皇は皇子や公家を日本各地に送り挽回を図るも上手くいかず、失意のうちに1339年(延元4年/暦応2年)に吉野で崩御してしまう。
さらには足利方が1348年(正平3年/貞和4年)に本拠地吉野を強襲、陥落させたため南朝は賀名生に退却せざるを得なくなる。
南朝の劣勢は明らかであった。
ところが軍事的優位を得た北朝の幕府も内部で亀裂が生じていた。
足利直義の取り仕切る幕府の要職を務めたのは行政能力に長けた旧来の名門武家であり、武功を上げただけの荒武者が入り込む余地がないどころか、その粗暴さから法に厳格な直義から敵視されるようになる。
武勇をもって幕府に貢献したにもかかわらず幕府からつまはじきにされた彼らは足利家の執事で足利尊氏の代わりに彼らを統率していた高師直に身を寄せることになる。治安を乱す危険人物達の首領を足利直義が許すはずもなく1349年(正平4年/貞和5年)に高師直は失脚に追い込まれる。
さらに足利直義は高師直を亡きものにしようと企てたため師直は武功がすべてのモヒカンを率いて直義を襲撃、今度は高師直が武力をもって足利直義を失脚に追い込む。
両者は失脚に追い込まれたものの互いの派閥は未だ健在であり対立関係は悪化していった。
観応の擾乱 ~足利尊氏の死まで~
足利直義が失脚した頃、足利尊氏の庶子であり足利直義の養子である足利直冬が直義復権のため中央の統制から離脱し中国、九州で策動を始める。
これを討つため尊氏は1350年(正平5年/観応元年)に高師直らを率いて九州討伐に向かった。なおこの頃赤松円心は京都で急死している。
ところが足利尊氏と高師直が京都を出払ったスキに足利直義は高師直討伐を掲げ一軍を成し、さらに南朝に寝返った上で1351年(正平6年/観応2年)に京都を制圧してしまう。これが足利宗家を二つに割った観応の擾乱の始まりである。
足利直義の動きに九州討伐どころではなくなった足利尊氏、高師直は退転して京都奪還を目指すも敗北。
足利尊氏と足利直義は和睦するも高師直は護送中に直義派の武将によって殺されてしまう。
足利直義は政務に復帰した。高師直亡き今、直義の天下かと思われたもののモヒカン共が根絶やしにされたわけではなく直義派の武将は次々に襲撃を受けることになる。さらに論功行賞の権限は征夷大将軍である足利尊氏が握っており、先の合戦においても尊氏につき従った師直派の武将ばかり優遇され、直義派の武将に褒美が与えられないどころか死罪に成りかけるなど直義派は追い込まれていく。足利直義は法治主義の傾向があったがこのような実力がものを言う乱世で武力の裏打ちのない法による統治など不可能であった。
足利尊氏は謀反人討伐の名目で軍を西と東の二つに分けて京都の軍勢を空にし、南朝と和睦の上で足利直義を討つ行動に出る(これにより南朝の「正平」と北朝の「観応」に分離していた元号が「正平」に統一されたため、「正平一統」と呼ぶ)。直義は京都から逃亡し抵抗するものの尊氏の追撃からは逃れられず、ついには1352年(正平7年)に捕えられ鎌倉に軟禁、急死(毒殺とも)し観応の擾乱は終わりを告げた。
足利尊氏と和睦した南朝であったがこの足利家の内紛を見逃さなかった。南朝は正平一統を破棄し京都と鎌倉の両方に同時に攻勢をかけこれを成功させる。この南朝の攻勢は一時的なものに終わり足利方は京都と鎌倉を短期間で奪還するものの、ここで政治的な問題が発生する。足利尊氏は正平一統の時に南朝に下っていたがこの期間に征夷大将軍の座を南朝から解任されており無位無官の状態に陥る。北朝から再任官を受けようにも北朝の皇族は南朝に拉致され三種の神器も奪われてしまっていた。
つまり自身の権力を担保する権威を失ってしまったため、政務が滞るどころか停止してしまい幕府が空中分解する恐れが出てきたのである。結局広義門院を治天の君とし後光厳天皇が即位するが三種の神器もなく父帝からの指名もない即位で、北朝の権威低下は明らかであった。
南朝の勢いも衰えておらず、京都は南朝の攻勢により数度に渡って戦火に巻き込まれることになる。
足利直冬も旧直義派と南朝を取り込み京都に攻め込んで激戦となるも最後は実父の足利尊氏に押し出されて敗走している。しかしこの合戦で尊氏は矢傷を受けてしまい、後に九州征伐を試みるもこのときの戦傷悪化で出陣は叶わず自身の勢力基盤が不安定なまま、1358年(正平13年/延文3年)に志半ばでこの世を去ることになる。
鎌倉幕府倒幕のメインプレイヤーと言える後醍醐天皇、護良親王、楠木正成、赤松円心、新田義貞、足利尊氏の英傑達は太平の世を見ることなく、全員地獄のような乱世の露と消えていった。
足利義詮の治世 ~南北朝合一まで~
足利尊氏の嫡子、足利義詮はこのようなまったく安定しない情勢の中、征夷大将軍に就任し室町幕府を引き継ぐものの義詮には尊氏に比べカリスマがなかった。尊氏が死んだとあって南朝の動きは一際活発となり九州、中国において南朝の勢力が増し関東、奥州でも南朝勢が蠢動した。配下の武将も政争や離反が激しく幕府重臣が将軍の捕縛を目論む事件も起こっている。
同時代の評価も低く一般に無能、暗愚、早世したことが最大の功績とボロクソに言われる足利義詮だがこの悲惨な情勢の中で烏合の衆と言えた室町幕府における将軍権力の強化を図り、関東、奥州を抑え中国地方においても有力武将を帰参させるなど南朝との戦いを優勢に進めて国政の安定化への道を切り開いている。
しかしながら幕府改革と南朝との戦いが道半ばな中で足利義詮は1367年(正平22年/貞治6年)に早世してしまう。
義詮の後を継いだのは嫡子、足利義満であったがこのときわずか9歳であり政務が行える状況ではなかった。このため義詮は死の前に管領である細川頼之に政務を託すことになる。
細川頼之は内政に優れた人物で皇室や仏門における内部対立を抑制し半済令によって武士の権益を保護した。
南朝との戦いも優位に進め南朝の武将を次々寝返らせている。
このころ九州は後醍醐天皇の皇子、懐良親王が制圧していた。懐良親王は義詮時代に幕府より送られた討伐軍をすべて跳ね除け10年以上勢力を保持し続けていた上に、明と独自外交を行って日本国王となるなど半独立状態であった。
しかし細川頼之は1370年(建徳元年/応安3年)に九州へと討伐軍を送り北九州を制圧、これにより地方における勢力をほぼ失った南朝の敗北は決定的となった。
やがて足利義満は親政をはじめ幕府の基盤を確固たるものとすると南朝に和睦を持ちかけた。南朝もこれを受けて1392年(明徳3年/元中9年)に三種の神器を伴い京都へと帰還し南朝の天皇が北朝の天皇に譲位する形で南北朝合一がなった。(明徳の和約)
南北朝合一が成ったことで南九州で抗争を続けていた南朝勢力も降伏した。
その他
後南朝 ~応仁の乱まで~
天下は太平となった。
・・・が、明徳の和約の条件が守られず旧南朝方は冷飯食らいだったため、天皇暗殺(未遂)を企て三種の神器のうち、剣と玉の二つを奪い大和に逃げ込む禁闕の変(嘉吉6年)が起こり後南朝が立てられる。
剣はすぐに奪い返されたものの玉は大和に潜伏している後南朝が持ち去ったままであった。
しかし後南朝はかつての南朝のような影響力を及ぼせなかった。
一時の政変は起こせたもののこの頃には幕府の基盤が固まっていたため劣勢を覆せず、後醍醐天皇のようなカリスマもアクティブさもなく、そもそも担ぎあげられた君主の血筋も定かでなかった。
やがて嘉吉の乱を起こし幕府で失脚した赤松氏が後南朝の君主を殺害(長禄の変)、玉は朝廷に返され赤松氏再興の肥やしとなり後南朝は事実上滅亡する。
かつてのような乱世は起こらなかったのである。
後南朝の君主の血脈はその後も続いていたと思われるが記録が定かではなく、応仁の乱の時に後南朝の末裔と称するものが西陣の南帝として担ぎあげられたのを最後に記録から消え去ることになる。
軍事的変容
鎌倉時代の武士は関東平野での抗争が主流だったためか「弓馬の道」と呼ばれるように馬上射撃を得意とする弓騎兵が主流であった。
しかし楠木正成や赤松円心ら悪党の戦術は平野での決戦を避け、山城にて防備を整える(日本の城郭の走り)というもので弓騎兵の利点を生かせなかった。さらに鎌倉や京都など市街戦においても敵の防御施設を打ち壊す必要から武士は徒歩での戦闘が多くなり、弓から太刀や長巻、長柄やこん棒といった接近戦用の武器が増え、馬上で着ることを想定した大鎧から徒歩で動きやすい腹巻へと防具が変容していく。
バサラ
婆娑羅とも。この時代の風潮を指す。華美で享楽的で身分秩序を軽んじ実力を第一として好き勝手振舞った者たちのことをいう。代表的な人物には佐々木道誉(京極高氏)が挙げられる。度々狼藉を働いたため足利直義もバサラ禁止令を出しているが改められることはなかった。
代表的な狼藉としては下記がある。
この他公家や寺社の荘園を奪うなど明らかに社会秩序の敵であった。
このような風潮は戦国時代のかぶき者とも通じる。
彼らは権威と秩序が流動的で戦続きの時代に生きており、身分や法に対して不審を抱き自分の身は自分で守るしかなかった。享楽的だった事もいつ死ぬとも知れぬ乱世で先の事より目の前の刹那的な快楽を求めるのは仕方のない事なのかもしれない。
文化の加護者の一面も存在し連歌、立花、闘茶を嗜み、能を保護した。能はこの頃観阿弥、世阿弥によって大成する。兼好法師もこの時代の人物でバサラから頼まれ恋文の代筆を行っている。
不人気
日本の歴史の中でも源平、戦国、幕末と並ぶ乱世であるものの南北朝は
NHK大河ドラマ作品を時代別にみていこう。(2021年現在。2022年以降の放送決定済み作品も含む)
- 源平 : 5作品(源義経、新・平家物語、草燃える、義経、平清盛)
- 戦国 : 22作品(太閤記、天と地と、春の坂道、国盗り物語、黄金の日日、おんな太閤記、徳川家康、独眼竜政宗、武田信玄、信長、秀吉、毛利元就、利家とまつ、功名が辻、風林火山、天地人、江、軍師官兵衛、真田丸、おんな城主直虎、麒麟がくる、どうする家康)
- 幕末 : 13作品(花の生涯、三姉妹、竜馬がゆく、勝海舟、花神、翔ぶが如く、徳川慶喜、新選組!、篤姫、龍馬伝、八重の桜、花燃ゆ、西郷どん)
- 南北朝 : 1作品(太平記)
----以下参考----
- 奈良時代以前 :なし
- 平安 : 2作品(風と雲と虹と、炎立つ)
- 鎌倉 : 2作品(北条時宗、鎌倉殿の13人)
- 室町 : 1作品(花の乱)
- 江戸前期 : 9作品(赤穂浪士、樅ノ木は残った、元禄太平記、峠の群像、春日局、琉球の風、元禄繚乱、葵徳川三代、武蔵)
- 江戸中後期 : 1作品(八代将軍吉宗)
- 明治・大正・昭和 : 6作品(獅子の時代、山河燃ゆ、春の波涛、いのち、青天を衝け、いだてん)
どれだけ不人気かおわかりいただけただろうか?
これは大河ドラマに限ったことではない。
時代小説でも大御所の作品は太平記を元ネタにしたもの以外ほとんどない。
映画もほとんどない。
漫画もほとんどない。
ゲームもほとんどない。(※皆無ではなく、上記の大河ドラマ『太平記』の放映前後に、波に乗る形で『太平記』というタイトルの戦略シミュレーションゲームが3本出ている。他には2014年に『明星の華~太平記異聞~』というイケメン英傑たちと恋愛ができる乙女ゲームが出ている。また、セガの戦国大戦のスタッフが作ったワールドチェイン(既にサービス終了済み)というゲームでもこの時代を少し取り上げている(余談だが同スタッフが関わった戦国大戦TCGというトレーディングカードゲームでも戦国時代なのにこの時代の人物を登場させている)。しかし逆にいうとたったその程度である)
これは皇統が二つに分裂した政治的に微妙な時代であることが一因(菊タブー)であるとよく言われるものの
一番の原因はこの時代がエンターテイメントに適していないためである。
南北朝は皇統の対立、公家と武家の対立、領主と悪党の対立、源氏の棟梁を巡る対立、家督相続を巡る惣領と庶家の対立などなど、上から下まで重要な対立軸が無数に存在し恐ろしく複雑である。一部の対立関係は鎌倉初期まで遡らなくては説明出来ないものもありこの時代への理解を困難なものにしている。複雑すぎて大量の説明を必要とするのである。本記事においても人物や合戦、政争を大幅に簡略化、単純化しているがそれでもこの分量である。
合戦は中央政治の延長でしかなく全国に波及した戦乱であるにも関わらず、戦国のように互いの領地を奪い合う陣取り合戦ではないため、互いの勢力図が目まぐるしく変化する。(京都だけでも5回以上戦場になっている)
時代や地域を切り取って物語を成立させることが難しいのだ。
鎌倉幕府を倒した英傑達は勝者と呼べるような人物がおらず、皆戦乱の中志半ばに亡くなっており誰を主役に添えても悲劇にしからない。これでは物語に幅を持たせられない。
この時代は地域に根付いた行動をとっていないため地方の英雄というにはあまり地元に貢献も密着しておらず地元の後押しも少ない。
さらには南北朝の終わり方である。
華々しい合戦でクライマックスとなれば良いのだが、南北朝は政治的決着で幕を引く。
政治劇はエンターテイメントに落とし込みづらいのだ。
これらを乗り越えてテンポよくわかりやすく面白い作品を成立させるのは相当の力量が必要になる。
素人が手を出すと大抵元弘の乱、うまくいっても建武の新政で止まって南北朝に入る前にエターなる。
またファンが少ないため商業的成功を求めるのであれば市場を開拓する必要がある。
時代小説界隈で「南北朝は売れない」とされていたのも頷ける話である。
逆にいえば手つかずの分野ということでもあり新鋭達のこれからの活躍を期待したい。幸いなことに、2016年に呉座勇一の『応仁の乱』が歴史書界隈では異例の40万部を「不人気な室町時代」で売り上げ大きく注目されると、それに引っ張られるように翌2017年には亀田俊和の『観応の擾乱』がこれもまた「不人気な南北朝時代」なのに異例のベストセラーとなるなど、若手の俊英歴史学者によってこの時代に追い風が吹きつつある。
関連項目
- 室町時代
- 日本史
- 足利尊氏
- 後醍醐天皇
- 楠木正成
- 新田義貞
- 赤松円心
- 護良親王
- 佐々木導誉
- 北畠顕家
- 足利義満
- 太平記
- 三種の神器
- 建武政権
- 観応の擾乱
- 後南朝
- 日本史の人物一覧(南北朝時代・室町時代の項参照)
- 南北朝(中国)
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