極楽とは、
- 仏教用語。阿弥陀如来のおさめる、幸福に満ちた清浄な地。「極楽浄土」、「西方極楽浄土」とも。
- 上記1.より転じて、仏教との関わりは問わず「楽園」「快い場所」「楽しい場所」を指す。
- さらに、1.は死後に往生すると伝えられる場所であることから、「死後の世界」のことを指すことがある。
本記事では、上記1.について解説する。
概要
仏教には「浄土」という概念がある。この浄土とは、衆生(全生命)の救済を願う「誓願」を立てて仏道の修行に励んでいる菩薩が、遂に仏となったときに現れる世界である。この「浄土」はその名の表す如く、穢れが滅された浄い場所である。
仏は無数に存在するため、浄土もまた多数存在するとされる。阿閦如来の「東方妙喜国」、阿弥陀如来の「西方極楽浄土」、釈迦如来(釈迦牟尼仏)の「無勝荘厳国」、大日如来(毘盧遮那仏)の「蓮華蔵世界」、薬師如来の「東方浄瑠璃世界」……。ちなみに、菩薩である観音菩薩の「普陀落山」や弥勒菩薩の「兜率天」も「浄土」に含むことがある。
仏教の宗派にもよるが、「仏の教えにしたがうことで遂には穢れに満ちた「穢土」であるこの世から「浄土」へと往生し、仏として生まれ変わることができる」とされることがある。兜率天へと往生することを「兜率往生」、西方極楽浄土(極楽)に往生することを「極楽往生」という。この場合、仏とは衆生をこのような清浄の地へと導く存在であるとも言える。
それら複数の浄土の中でも、日本で最も知名度が高い浄土が阿弥陀如来(阿弥陀仏)の統べる「極楽」である。
「極楽」はサンスクリット語sukhāvatīの漢訳であり、「幸福」「喜び」「楽しみ」といった意味のsukha、「~を有するもの」という意味のvatが合わさった言葉である。すなわち幸福・喜び・楽しみに満ちた理想世界であるとされる。
浄土信仰
なぜ数ある浄土の中で極楽が最も知られるようになったか?乱暴に言うと、この阿弥陀仏の極楽が最も「往生しやすい浄土」であるからと言えるかもしれない。
阿弥陀仏の立てた四十八の誓願を解説している経典があるのだが、その誓願の十八番目に「心から信じ、私の国に生まれたいと願うものがいて、少なくとも十回念じているならば、私の国(すなわち西方極楽浄土)に往生させよう」(意訳。細部省略)というものがある。
仏の誓願を「本願」と呼ぶことがあるが、特にこの阿弥陀仏の誓願は教義上重要であるため、「本願」と言えばこの阿弥陀仏の四十八の誓願、あるいは中でも十八番目の誓願のことを指すことも多い。
このように往生させてもらうための方法が明確かつ簡潔に述べられていることから、この仏典の内容を奉じ、阿弥陀如来とこの十八番目の誓願を信じて極楽浄土への往生を目指そう、というかたちの信仰が登場した。これを「浄土教」や「浄土信仰」という。日本では浄土宗や浄土真宗などがこの浄土信仰の立場を取っており、阿弥陀仏を本尊としている。
念仏として有名な「南無阿弥陀仏」(ナムアミダブツ)という言葉は「阿弥陀仏に帰依します」という意味であり、俗に念仏として知られる「ナンマンダブ」「ナンマイダー」などはこれがなまった言葉である。なお、「ナンミョーホーレンゲッキョ」は「南無妙法蓮華経」がなまったものであり、「法華経」というまた別の経典に依ったものである。
浄土信仰は、自力に頼まず他力である阿弥陀仏に帰依して真摯に念じ、その慈悲深き本願にすがることで極楽浄土への往生を成し遂げよう、というものであり、これを「他力本願」と呼ぶ。現在では「他力本願」は「他人の力をあてにしている」という悪い意味で使用されることが多いが、本来は浄土信仰の教義を表す言葉である。
浄土信仰の教義について、他力本願の派生したほうの意味の如く「つまり辛い修行を諦めて楽な道に行くということか」と捉える者もいるかもしれない。だが、悟りを目指す厳しい修行や戒律、その枠からはみ出さざるを得ない人々までもが極楽浄土に往生して救済されることを目指した、阿弥陀仏の心を見習った慈悲深い宗派である、と解釈することもできよう。
こう言った経緯から、仏教の各宗派の中でも浄土信仰の宗派が特に「浄土」について強調して語り、中でも阿弥陀仏の浄土「極楽」について最も重視する。そのため、単に「浄土」と言えば「極楽浄土」を指すことが多くなったのである。
関連項目
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