藤原純友(?~941)とは、藤原氏の一門で、いわゆる承平・天慶の乱の関係者のうち西国で反乱を起こした人物である。
概要
かつては『系図纂用』に記されている有馬氏や大村氏の系図に記された伊予国の国司・高橋友久の子という見方もあったが、今は『尊卑分脈』に記された筑前守、太宰少弐を歴任した高倉流藤原氏・藤原良範の子供という見解でほぼ一致している。
藤原良範は藤原氏の中でもまだ嫡流から分かれたばかりの、権力の中枢に近いところにおり、その息子である藤原純友も同じ高倉流の親戚・藤原元名が伊予守に任命されたことと関連して、伊予掾に承平2年(932年)ごろ就いたとされる。
この当時瀬戸内海ではしばらく鳴りを潜めていた海賊が活発化し、時の権力者・藤原忠平の日記『貞信公記』にすら海賊の記事がしばしば出てくるほどであった。かつてはこのころすでに藤原純友が海賊の首謀者であったとされてきたが、史料の精査によって、むしろ討伐側にいたことが明らかになってきた。そうして、この海賊に対しては承平6年(936年)ごろの伊予守・紀淑人が、藤原純友の助けも借りて、説得工作にあたり、見事に鎮圧していったようだ。
しかし天慶2年(939年)、藤原純友の盟友・藤原文元が備前介・藤原子高とトラブルを起こし、藤原純友は紀淑人の静止も振り切って調停に向かうも失敗し、ついに文元と純友が子高を襲撃する合戦に及んだ事件が起きてしまう。
しかし東国の平将門同様、当初は純友も朝廷も政治的な駆け引きで抑え込もうとし、純友は行動を慎み、朝廷も融和的に済ませようとしていった。しかしこの間東国の平将門は藤原秀郷、平貞盛らに撃たれ、西国に軍勢を送る余裕が次第にできていったのである。
その一方で天慶3年(940年)秋ごろから、藤原純友の率いる海賊勢力が活発化し、伊予・讃岐・備前・備後・紀伊から海賊の襲撃の報告が伝わってくる。純友はついに本格的な反乱に踏み切ったのである。
こうして朝廷では追補山陽南海両道凶賊使として小野好古が任命され、天慶4年(941年)になると海賊中暴悪の者と称された前山城掾藤原三辰が戦死、純友軍の次将であった藤原恒利が寝返り、といったように純友軍は一気に不利になる。そのため5月20日の大宰府襲撃によって勢力を挽回しようとした藤原純友であったが敗走。そのまま6月20日に息子の藤原重太丸とともに討ち取られてしまった。
平将門の『将門記』にあたるような軍記物語がなく、実は藤原純友、およびその反乱についてわかっていることは現在も少ない。しかし、将門同様この反乱を討伐した家系から後の軍事貴族、つまり武家の棟梁のイエが成立していき、平安時代のターニングポイントの一つとなっているのである。
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