平将門(たいらの・まさかど) ?年 - 940年3月25日)とは、平安時代中期の武将にして、世界屈指の大都市、東京の守り神である。
概要
武家としての平氏の実質的な起源とされる平良将の子。叔父の平国香とのいざこざをきっかけに朝廷を相手に平将門の乱を引き起こし、関東地方を治め、新皇を自称し、独立地方政権を作り上げたが、最終的には平貞盛らによって討ち取られた。当時はまだまだ未開拓地であった関東地方を注目させ、地方武士の持つ力を見せ付けた功績は大きい。またこれらの功績と、当時横暴な政治を行っていた朝廷に反旗を翻したことから、没した後も、特に関東地方の人々の人気の的となってきた。
平将門の怨霊
平将門と言えばコレである。東京都千代田区大手町、昼間は多くのビジネスマンやサラリーマンが闊歩するこのオフィス街のビルとビルの間に、不自然に、小さな首塚がポツンと建てられてある。
これこそが平安京にて晒し首にされた平将門の、その首が飛来してきたとされる将門(しょうもん)塚である。
何度か取り壊し建て替え工事が行われようとしたが、その度に工事関係者に謎の事故が相次ぎ取りやめとなってきた。果ては戦後のGHQでさえもここへの駐車場の建設は中止としたとか。
もはや偶然では済まされなくなったこれら一連の事件により、首塚は畏怖の対象とされ、首塚付近に勤務する大手町の人々は、決して首塚の方向に尻を向けないようにしながら働くらしい。死して時代を超えても、今なお力ある存在として君臨し続ける将門に不思議な魅力を感じずには居られない。
東京の鎮守
一方で、13世紀末から14世紀初頭にかけて首塚周辺で天変地異が起きた際に、それを鎮めるため、1309年に神田明神に合祀された。その後、将門は勝利の神として祈願されることが多くなっていった。
その後、徳川家康が後北条氏の征伐ののちに関東八州に転封されたのち、関ヶ原の合戦の勝利を祈願している。
江戸幕府が成立すると、神田明神は江戸城の北東、すなわち鬼門に当たる方角に遷座し、江戸総鎮守(江戸の守り神)として重視した。
明治になると、将門を朝敵とみなす動きが強まり、神田明神から将門神社へと遷座させられるが、1984年に運動の末に神田明神へと再び合祀された。
東京を愛するのであれば、ぜひとも首塚と神田明神に参拝していただきたい。 ただし、あなたが成田山新勝寺に参拝したことがあるなら話は別である。
将門公と成田山
神田明神を崇敬する者は成田山新勝寺を参拝してはいけない、という言い伝えがある。逆、即ち「成田山新勝寺に参拝した者は神田明神に参拝してはいけない」も然り。
平将門の乱が起きたとき、寛朝(かんちょう)という僧がこの成田山の地に不動明王の像と共に出向き、乱の鎮圧を願い動護摩を行ったという。護摩行と時を同じくして将門は討ち取られ、天皇は不動明王の霊験だと歓喜したという。で、この不動明王を祀って開山したのが成田山新勝寺……つまり新勝寺は将門を調伏せしめた宿敵なのである。
こういういわれがあるので、成田山新勝寺と神田明神を両方参拝するのはタブーとされている。
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