武田信豊(たけだ・のぶとよ)とは、戦国時代の武将であり、同名の人物が2人いる。共にこのページにて解説。
若狭武田家7代当主。武田元光の嫡男。弟に安芸武田氏を継いだ武田信実、内藤政信、山県盛信、武田信高。子に武田義統、武田信方、武田信景がいる。義兄弟に細川晴元、土岐頼芸、北畠具教がいる(全員妻が六角定頼の娘)。
ちなみに長男の義統は、信豊が13歳の時の子である。
六角定頼の娘を娶り盟を結ぶ。この時代の若狭武田氏は隣国丹後の一色氏との争いが収まったころであったが、逆に内紛が絶えない時期に突入した。
1538年には叔父・武田信孝が家臣・粟屋元隆に擁されて挙兵するが、これを何とか破って追放し、信孝は越前の朝倉孝景を頼っていった。こうして後継者争いを制した翌1539年、父から家督を譲られて当主となる。
やがて中央で義兄・細川晴元が三好長慶と対立すると、晴元の要請で長慶と戦うも、逆に粟屋右京亮などの有力家臣を多数失う大敗を喫し威勢を失う。この後、長慶によって畿内を追われた晴元を若狭において匿った。
内憂外乱続く中で、若狭における領国運営は安定したものではなく、子・義統には隠居を迫られて対立する。結局、味方であった弟・信高の病死をきっかけに、妻の実家である近江へと逃れた。1558年のことだという。
義統とはのちに和議が成立し帰国が実現した。没年は不詳だが、少なくとも1569年時点では未だ存命しており、1567年に没した義統より長生きしたようだ。(※ただし義統は1580年没説もあり)
父と同じく和歌に通じた人であったが、彼の時代に若狭武田氏は大きく疲弊し、朝倉氏による征服を招くことになる。
武田信繁の次男。兄に望月信頼、弟に望月信永がいる。武田信玄の甥にあたる。通称は典厩(てんきゅう)。父と同じ通称のため、父は『古典厩』(こてんきゅう)、信豊は『後典厩』(ごてんきゅう)と区別されている。
従兄弟の武田勝頼とは年齢が3コ違いであり仲も良く、信玄の死後は穴山梅雪(穴山信君)らと共によく補佐した。
ちなみに幼名は「長老」である(長生きしてほしかったのだろうか…)。
1561年の第四次川中島の戦いで父と兄が戦死したため、13歳で父の跡を継ぐ。
今川義元の死後、衰退著しい今川氏を攻め込むことにした武田信玄は、1567年に今川攻めに反対する自身の嫡男・武田義信を廃嫡し、のちに死へと追い込んだ。信玄は北条氏に今川領の領土分割を提案したが、北条氏政はこれを拒否。徳川氏と領土分割の密約を結び駿河侵攻が本格的となると、武田氏と北条氏は手切れとなり、今川氏真を攻めながら北条氏康・氏政父子とも戦うこととなった。
1569年の蒲原城攻略では、信豊は勝頼と共に活躍を見せる。蒲原城は城主・北条綱重(北条幻庵の子)以下1000の兵が守っていたが、信豊が勝頼と共に大将なのに矢玉が降りしきる中を突っ切って突撃したという。この効果もあり綱重を始め主だった武将たちを討取った。しかし信玄はこの件に関して怒り呆れ果てたという(そりゃそうだ)。
智謀や文学に優れた事で有名な父・信繁とは異なり、若き日の信豊は知略派というより武闘派の人間であったようだ。
1573年に信玄が信濃駒場で亡くなり、勝頼がその跡を継ぐと一門衆として活躍することとなる。
1575年の長篠合戦では中央隊に配置され、勝負が決して負けが決まると小山田信茂らと共に勝頼を護るように撤退した。なお『甲陽軍鑑』では、高坂昌信が信豊と穴山梅雪に敗戦の責任をとらせて切腹させようと提案したという逸話が残っているが、結局この案は取り下げられた。
これ以降は外交に尽力し、上杉氏との甲越同盟(婚姻同盟)を結ぶが、北条氏との同盟が決裂してしまう。そこで続いて佐竹氏との甲佐同盟(軍事同盟)を締結し、のちに佐竹氏を介して里見氏とも同盟が締結された。これにより北条対策はひとまずなんとかなった。
北は同盟地、東は対策済とはいえ、西には織田氏、南には徳川氏がおり、武田氏とすれば大変苦しい状況には変わりなかった。そんな中、1582年に木曾義昌が織田氏に通じたことを発端として甲州征伐が始まる。
当時の武田氏は信濃・甲斐・駿河の3ヶ国に上野の一部も所有する有力大名であったが、南からは三河・遠江の2ヶ国を治める徳川氏が、東からは伊豆・相模など5ヶ国を治める北条氏、そして西からは畿内の大半を支配下に置く織田氏が武田氏に襲い掛かった。
信豊は寝返った木曾軍を討伐するべく鳥居峠で一戦するも、織田方の援軍もあって敗北し、信濃の小諸城へと逃れる。しかし、小諸城代・下曾根浄喜の裏切りによって嫡男・次郎らと共に自害に追い込まれてしまった。武田氏滅亡の1ヶ月前の事であった。
長篠の戦いの責任を負わせようとするも却下となった話を初めとして、信豊の存在は否定的に、いわゆる奸臣として書かれている事が多い。
例えば、勝頼の娘は穴山梅雪の子と婚約していたのだが、この婚約が一方的に取り消されて信豊の子と婚約する事になり、これが梅雪寝返りの一因であるとか。包囲された高天神城への救援に一貫して反対したとか。
あくまで後代に記された内容で信憑性は微妙であるが、外交に奔走していた信豊の立ち位置が難しいものだった事は想像に難くない。
「信長の野望」(PC)シリーズにおける1.の武田信豊(若狭)の能力一覧。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | 104(B) | 智才 | 64(C) | 政才 | 114(B) | 魅力 | 72 | 野望 | 30 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 48 | 戦闘 | 27 | 智謀 | 39 | 政治 | 44 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 36 | 智謀 | 22 | 政治 | 38 | 野望 | 42 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 40 | 知略 | 39 | 政治 | 42 | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | 58 | 武勇 | 63 | 知略 | 25 | 政治 | 43 | ||||||
創造 | 統率 | 58 | 武勇 | 62 | 知略 | 34 | 政治 | 46 |
「信長の野望」(PC)シリーズにおける2.の武田信豊(甲斐)の能力一覧。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S2) | 戦闘 | 56 | 政治 | 67 | 魅力 | 87 | 野望 | 65 | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 51 | 政治 | 59 | 魅力 | 65 | 野望 | 54 | 教養 | 57 | ||||
覇王伝 | 采配 | 65 | 戦闘 | 75 | 智謀 | 24 | 政治 | 49 | 野望 | 50 | ||||
天翔記 | 戦才 | 148(A) | 智才 | 96(C) | 政才 | 118(B) | 魅力 | 65 | 野望 | 66 | ||||
将星録 | 戦闘 | 70 | 智謀 | 48 | 政治 | 56 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 54 | 戦闘 | 60 | 智謀 | 50 | 政治 | 48 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 44 | 智謀 | 36 | 政治 | 36 | 野望 | 70 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 49 | 知略 | 42 | 政治 | 38 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 52 | 知略 | 45 | 政治 | 38 | 教養 | 52 | ||||||
革新 | 統率 | 70 | 武勇 | 62 | 知略 | 51 | 政治 | 43 | ||||||
天道 | 統率 | 67 | 武勇 | 62 | 知略 | 51 | 政治 | 43 | ||||||
創造 | 統率 | 64 | 武勇 | 61 | 知略 | 53 | 政治 | 47 |
掲示板
3 ななしのよっしん
2016/11/12(土) 17:52:55 ID: kZ/VhNUqxw
>>2
代々の伊豆守とか官位の高さから甲斐も含めた武田の本家筋という見方もある
少なくとも幕府と密接な関係にあったのは確か(そして幕府の失墜とともに没落していった)
4 ななしのよっしん
2021/02/28(日) 17:40:06 ID: aXy2i7JtRq
若狭武田は室町将軍に依存してるだけあって畿内の主要な合戦には毎回出てきてるイメージ
5 ななしのよっしん
2022/11/08(火) 17:29:51 ID: 9+hgN6OWzs
甲斐武田って乱暴に言えば落ち延びた分家だしな
そりゃ京都に近い方が格式上は上
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最終更新:2024/05/03(金) 10:00
最終更新:2024/05/03(金) 10:00
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