朝倉義景 単語

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アサクラヨシカゲ

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朝倉義景15331573)とは、戦国時代の武将である。

概要

信長包囲網の一を担い、戦国時代に頭を現した越前朝倉氏を滅亡させた人物として有名。

現在力は高かったが、運と相手が悪かった扱いで落ち着きつつある。

前半生

出自

2人の方の朝倉孝景息子母親は若狭武田氏の武田中務少徳院で、『朝倉伝記』によれば父親が歳をとった41歳のころの子供らしい。なお、六角氏出身の仁木長政から迎えた養子というのは、ソース実在が確認できない六角氏の一門を顕したあの偽書『江武鑑』なので物。朝倉に斯波氏出身の大野三河守の妻がいる。

なのだが、幼少期はあまりよくわかっていない。『後鑑』にある『大館書状案』によると幼名は長叉らしい。この書状は足利義晴が前年の足利義輝出産朝倉孝景が良く奉仕したことのお礼を、長叉の母親にしたというものらしい。

父の突然の死と家督継承

朝倉孝景の代にも永正13年(1516年)に袋・毛氈覆と御供衆の座が認められ、文4年(1535年)には塗輿、文7年(1538年)には相伴衆に列した朝倉氏。しかし、文17年(1548年)にその朝倉孝景が急死してしまう。すでに督継承者の地位にいた彼が督を継いだが、その際本寺からの祝いの返書に「延」と署名しており、当時は朝倉次郎という名前だったようだ。

さらに、督を継いで以後は、文21年(1552年)に足利義輝から偏諱されて朝倉から朝倉義景に名前を改め、父親や斯波氏すら飛び越えた左衛門督にいきなり任じられるほど朝倉氏の権勢は絶頂にあった。なお、永2年(1559年)には従四位下に任じられている。

そんな彼が最初にやったことは、様々な儀礼である。当時の朝倉氏は先祖の遠忌の時期にあり、朝倉の二年忌の法会と淵大明神への崇敬が特筆すべきことである。また内政の充実も進め、臣への知行宛行や寺社領の安堵、寺社の修理交通の整備などが行われた。隣の若狭武田氏と同様戦国大名とは言いつつも、東の諸大名ほど進んだものはなかったが(朝倉氏の戦国大名化は織田信長との戦いで急速に進んだともいえる)、前代の朝倉孝景、そして朝倉義景の代に奉行人の拡充や貨幣経済に基づく財政の確立、そしてそれらを朝倉義景本人が把握する体制が築かれていったようである。

加賀・若狭への進出

そしてついに対外出兵が行われる。『古案記録案』に残された朝倉宗滴らの外交文書によると、朝倉義景は越後や出羽の諸大名と深く交友を結んだ。しかし、その反面朝倉氏はとにかく加賀一向一揆と仲が悪く、数代にわたって抗争していたのである。軍記『朝倉始末記』によれば上杉謙信と一を挟み撃ちにする算段だったことになっているが、『反古裏書』によるとあくまでも武田信玄と敵対していた上杉謙信を後ろから支援するために加賀へ侵攻したとのこと。なお、軍記『朝倉始末記』のイメージから全く出しなかったといわれるが、軍事武術、兵学などを極め、直轄軍を追物で鼓舞するなど、本人の軍事力は結構高かったようだ。

朝倉義景の加賀攻撃は浩治元年(1555年)から行われる。当初は朝倉宗滴が担ったが、病気朝倉に代わる。朝倉宗滴はここで78歳の生涯を終えた一方、朝倉も堅実に戦い、結局足利義輝の二度の催促と六角氏の仲介もあり、浩治2年(1556年)の暮れに和となった。

この後、安東愛季との交流などを経て、永7年(1564年)に再度の加賀出兵を行おうとした。ところが、今回は朝倉景鏡朝倉が両大将だったことで、朝倉宗滴の孫・朝倉垙が大将になれなかった不満から自害し、朝倉義景本人が出することとなった。この出兵はわずか14日間だったが、上杉謙信小山に送った書状によると、川中島の戦いとの連動であったようだ。

しかし、上杉謙信連合した加賀出兵はひとまず大聖寺に駐留して圧力を加える方針となり、次に向かったのは若狭である。若狭武田氏は数代にわたって子同士で争っており、これに重臣の反乱も重なっていたのである。永年間から朝倉義景は武田義統依頼粟屋勝久らに恣意行動をとっていったようだ。

足利義昭の訪れと別れ

一方、三好長慶と敵対する足利将軍は、東方北方の諸大名に支えられていた。その一つが朝倉義景であり、上述の通り朝倉義景と足利義輝は割とツーカーの仲であった。ところが永禄の変足利義輝が討たれる。これに対し足利義昭起し、まず武田義統を頼るが、嫡子・武田元明を担がれた反乱で足元がおぼつかない。結局彼は朝倉義景を選び、下向しようとしたものの、こちらも加賀一向一揆との抗争と堀江忠との戦いで手いっぱいだったようだ。

しかし、永10年(1567年)に足利義昭本願寺顕如への度重なる催促で朝倉義景は加賀一向一揆と和すると、足利義昭を迎える。朝倉義景の母親徳院が二位に叙され、朝倉義景が足利義昭の加冠役を務めるなど、従のきずなを深めていったようだ。このタイミングで行われたのがあの朝倉義景邸への御成りである。

しかし、上に非協力的だった朝倉義景から足利義昭が去った。軍記物の設定のためすべての展開が史実かは不明だが、朝倉義景の7歳の嫡男・君の殺騒ぎがあり、朝倉義景自身はとても動ける状態ではなかったようだ。というわけで上を推進する力のあった織田信長が選ばれたわけだが、これがすべての始まりとなった。

なお『永記』などによると朝倉義景は織田信長の上には反対で、足利義昭を再三引き留めて去られた結果、織田信長の上に非協力的だったとされるが、これらは軍記物語のため、伏線としての文学表現に気をつけねばならない。しかし、史実的には朝倉義景の押が「足利様」から足利義晴を模したような「公家様」に変更されるのもこのタイミングであり、嫡男・君の殺と足利義昭が自身から去ったことで心機一転したというのは事実であったようだ(そして彼の生涯もここから第二幕となる)。

織田信長との戦い

若狭への進出から対信長へ

足利義昭が去った後の朝倉義景のやったことといえば若狭への介入である。武田元明越前に確保したのである。軍記物語や民俗誌などによると「拉致」と表現されるが、武田信玄への書状では朝倉義景は「保護」と認識していたようだ。しかし、どちらであっても若狭への力を行使するキーパーソンを手中に収めてしまったのは事実であり、混乱する若狭を徐々に蚕食していった。

足利義昭織田信長によって永11年(1568年)に上すると、彼らによって下静謐が唱えられる。軍記のもろもろの文学的表現は無視するにしても、事実として朝倉義景は彼らを無視した。そして永13年(1570年)に若狭の混乱を立て直すために織田信長足利義昭らの連合軍が武藤友益を攻撃すると、突如として越前に侵攻する。さらにこれに突如として浅井長政が離反して織田信長らを攻撃するという事態に陥り、朝倉義景・浅井長政らと織田信長との戦いが始まる。のだが、これらの経緯が全くよくわからず、諸説紛糾しまくっている。

織田信長足利義昭らとこれにあたろうとするが、三好三人衆との戦いで手いっぱいだった足利義昭はこれを支援できず、徳川家康らとの戦いに至る。結果は痛み分けだったが、織田信長はこれを大勝利と宣伝した。以後、本願寺顕如が味方に付いたことで朝倉義景らに有利となる。しかし、『尋記』によると足利義昭二条晴良らが和を進め、山門を除いて朝倉義景らと織田信長は和する。しかし、後世『信長公記』では朝倉義景が足利義昭に厳のため和を懇願したとまで書かれ、『三河物語』には「下は朝倉殿」とまで織田信長が言って窮地を切り抜けたなどと、だいぶバリエーション豊かな記憶をされていったように、これが朝倉義景に裏に出てしまう。

2年(1571年)に比叡延暦寺が燃やされる。朝倉義景は敦賀に進み、若狭を攻略していき、本願寺顕如武田信玄らと第一次信長包囲網が形成される。元3年(1572年)には小谷に侵攻し、王手をかけたのである。ところが、ここで兵糧の問題から朝倉義景だけ離脱してしまったのである。一段上にいる明確な盟のいなかった信長包囲網は連携を欠いており、朝倉義景の離脱を本願寺顕如武田信玄も詰っている。しかし、前回も今回も厳期なのは事実だったので、朝倉義景の論理としては厳期は内で軍勢を休める必要があったと思われる。

そして終局へ

さらに足利義昭が元4年(1573年)2月織田信長引くと、朝倉義景は再度敦賀に着4月7日正親町天皇旋で織田信長足利義昭は和し、朝倉義景は一乗に戻るも、依然として近江では浅井朝倉軍と織田軍との小競り合いが続いていた。そして6月足利義昭が再度起すると織田信長は直ちにこれを追い、足利義昭真木嶋昭光の槙に籠り、二条三淵藤英と連携して対抗する。しかし情勢はあっけなく織田信長優位に傾き、7月18日足利義昭京都を追われることとなった。

一方この間、朝倉義景は浅井長政から内応者への対応のため出を要請されている。これに朝倉義景の本隊が応じ、8月には近江に到着した。ところが、岐阜に戻ったはずの織田信長織田信忠とともに8月10日越前勢の大嶽への進軍を遮断し、孤立した大嶽を降させる。同じく朝倉方の前線基地だった丁野も降しており、浅井長政小谷が孤立してしまったのである。

前線が崩壊したことを悟った朝倉義景は退却を命じた。ところが、山崎吉家などが死兵となって本隊を返す予定だったはずが、織田信長は強行軍で夜襲をかける。これが坂の戦いである。『信長公記』にはこの戦いで朝倉義景を支えていた人々が多数討ち取られたことが記録されている。

かくして、3年にもわたる近江戦線が崩壊し、織田信長越前に侵攻する。8月14日には織田信長敦賀に入ったのである。さらに朝倉義景が頼った大野朝倉景鏡の離反によって8月20日に身柄を取り囲まれ、朝倉義景はこうして大野で自した。辞世の句は「七転八倒、四十年中、他もく自もし、四大本」と伝えられるが、これが真実かどうかはわからない。とにかく、わずか半月程度の急転直下の滅亡劇であった。

朝倉景鏡は、徳院、小少将王丸を捕らえ、8月25日に朝倉義景の首が京都獄門にかけられた翌日の8月26日丹羽長秀によって彼らも殺された。加えて越前一向一揆混乱朝倉同名衆もことごとく標的として消されていき、朝倉氏の跡は消えていった。さらに朝倉嘉や朝倉忠といった人々が反信長営にたどり着き再運動をもくろむも、営の壊滅で歴史の表舞台から姿を消す。一応、朝倉同名衆では溝江長逸の子孫が彦根士となり、朝倉高の子孫を称する朝倉宣正が徳川忠長の付家老となった。

朝倉義景の家族

軍記『朝倉始末記』による四人の妻(細川右京兆の近衛殿の御息女、小宰相局、小少将)がふんわり定説となっているが、事実かは不明。

細川晴元と仲は良かったが、長女を生んだはずの最初の正室は記録がなく、足利義輝母親・慶寿院が書状を送ったことで実在が確認できる近衛殿の御息女も軍記の設定では史実とかみ合わない。斯波氏の分流・氏出身の小宰相局も系図によっては細川右京兆のになっていることや嫡男・君の殺騒動に矛盾が多く、王丸を生んだ小少将は朝倉義景の滅亡後に息子刺殺されたことしかわからない。

結局どんな妻がいたのかもよくわからないのが朝倉義景なのであった。

なお、息子は前述の通り2人ともどちらも幼くして死んでおり、で本願寺教如の妻になったらしい人物と勝寺佐廉の妻になったらしい人物の母親すら後世の編纂物でまちまちである(というかこの2人は、『朝倉始末記』ではが本願寺教如でが清寺の摂照丘となってその位まで存在、『雲龍山勝寺系譜』ではが勝寺佐廉でが本願寺教如、永寺『朝倉氏系図』では佐久間盛政が勝寺佐廉と結ばれており、いだかすらあやふやである)。母親の若狭武田氏出身の徳院も小少将王丸とともに殺されており、越前朝倉氏の嫡流は全に根絶やしにされたようであった。

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける朝倉義景の力一覧。

戦国群雄伝以後全作に登場。織田信長への敗北が盛大に引きずられてしまっている

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 57 政治 54 魅力 93 野望 73
武将風雲録(S1) 戦闘 39 政治 46 魅力 80 野望 20 教養 69
覇王 采配 70 戦闘 24 智謀 9 政治 56 野望 39
天翔記 戦才 60 智才 110 政才 112 魅力 75 野望 71
将星 戦闘 25 智謀 45 政治 51
烈風 采配 40 戦闘 12 智謀 34 政治 46
世記 采配 25 智謀 15 政治 32 野望 74
蒼天録 統率 22 知略 27 政治 32
下創世 統率 22 知略 30 政治 36 教養 68
革新 統率 34 武勇 25 知略 34 政治 60
統率 34 武勇 25 知略 34 政治 60
創造 統率 37 武勇 39 知略 39 政治 59

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