オットリーノ・レスピーギ(1879~1936)とは、19世紀後半から20世紀前半にかけて活躍したイタリアの作曲家・指揮者である。
ボローニャのピアノ教師の息子に生まれた。多くの言語を学び、幅広い教養を身につけただけではなく、1891年からボローニャ高等音楽学校にてヴァイオリン、ヴィオラ、作曲を学び始め、ヴァイオリニスト、ピアニスト、作曲家としても天賦の才能を持っていた。
1906年ころから古楽の研究を開始し、1913年からローマを拠点とし、作曲の教鞭をとった。1920~30年代の古典主義者と現代主義者との対立では消極的前者の立場をとる。レスピーギは、イタリア音楽の復興を試みるイルデブランド・ピッツェッティ、ジャン・フランチェスコ・マリピエロ、リッカルド・ザンドナーイ、イタロ・モンテメッツィ、フランコ・アルファーノら「1880年世代」の一人で、その手段としてルネサンス・バロック時代の原点に立ち返ることを標榜したのだった。
初期は作曲家としてはあまり注目されてこなかったが、1916年の『ローマの噴水』で自己のスタイルを確立。そのスタイルとはニコライ・リムスキー=コルサコフ、モーリス・ラヴェル、リヒャルト・シュトラウスのオーケストラレーションを駆使しつつ、イタリア古楽の要素を混ぜ合わせていくものだった。こうしてアルトゥーロ・トスカニーニらの演奏によって次第に名声を獲得していったレスピーギは、スカルラッティ以来オペラ以外の分野で名声を得た最初のイタリア人と言われている。
しかしムッソリーニのファシスト政権がイタリアに誕生すると、ぎこちなくも協力関係を築いていく。1932年にはファシスト政権からイタリア王国学士院の会員に叙され、さらにイタリア音楽の近代主義的傾向を非難する嘆願書にも署名する。レスピーギは病に侵され、この後すぐに亡くなってしまい、ドイツにおいて同様の立場にあったリヒャルト・シュトラウスのように復権することもなく、第2次世界大戦以降は人気が衰えてしまったのであった。
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1 ななしのよっしん
2018/07/19(木) 00:05:34 ID: /BxNXEX2pI
2 ななしのよっしん
2018/07/19(木) 00:31:17 ID: YPwy6vVejZ
> 第2次世界大戦以降は人気が衰えてしまったのであった。
そうだったんか・・・
確かに熱狂的なファンや専門の奏者、「XXの時の定番曲」といったのは無いのかも。
でも、「誰もがどこかで聞いたことのある曲」はあるよね。
ローマの噴水とかシチリアーナとか。
シチリアーナ、夕暮れの海辺で聴くとグッとくるんだぜ。
3 ななしのよっしん
2021/01/08(金) 12:31:04 ID: C6k9sA7sSj
劇的交響曲もよろしく
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最終更新:2024/12/28(土) 10:00
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