ギリシャ国とは、第二次世界大戦中の1941年4月30日から1944年10月14日まで存在した枢軸国である。
第二次世界大戦が勃発して1年が経過した頃、イタリアのムッソリーニ総統はある野心に燃えていた。準備不足だった事もあり、イタリア軍は対フランス戦や北アフリカ戦線で散々にやられていた。地の底に落ちたイタリア軍の威信を取り戻し、ドイツ軍と同等の作戦遂行能力がある事を示すため、勝手にギリシャ侵攻を企図し始めた。北アフリカ戦線に送られるはずだった戦車を急遽対ギリシャに割り当て、1940年10月28日早朝に最後通牒を突きつけた。これに対しギリシャ首相イオアニス・メタクサスは断固拒否、イタリア軍との戦端が開かれる事になった。
しかしイタリア軍はここでも弱かった。ギリシャ軍は想像以上に強く、地の利を活かしてイタリア軍を押し返した。ギリシャ軍は反攻に転じ、イタリア傀儡のアルバニアに侵攻。イタリア軍最大の攻勢作戦も跳ね返すなど善戦し続けた。3月28日、ギリシャに応援へ向かう途中のイギリス艦隊とそれを阻止しようとするイタリア艦隊が激突し、マタパン岬沖海戦が生起。ところがここでもイタリア側は巡洋艦3隻と駆逐艦2隻を失って敗退。イタリア軍はあやうくアドリア海で海水浴させられるところだったが、ここでドイツ軍が介入。1941年4月5日にドイツ軍が加勢に来てからは、ギリシャ軍は劣勢に立たされる。イギリスに援軍を要請したが、ギリシャ軍・イギリス軍ともに連敗。さらにアルバニアまで押し込まれていたイタリア軍が息を吹き返し、再度侵攻。苛烈な攻勢に耐え切れず、イギリス軍6万2000人のうち5万人が撤退。ギリシャ軍も膝を屈し、4月23日に独伊と和平協定を締結。翌24日にギリシャ軍司令部が降伏し、4月27日には首都アテネが枢軸軍に占領された。こうしてギリシャはクレタ島を除き、全土が枢軸軍に支配された。
1941年4月30日、陸軍のゲオルギオス・ツォラコグルを初代首相に据えたギリシャ国を樹立。枢軸国陣営に入った。しかしその実態は傀儡国に過ぎず、国土はドイツ・イタリア・ブルガリアの三国によって分割統治。ギリシャ国には何ら権利は無かった。
後方地域だったためしばらくは戦火に焼かれる事はなく、ドイツから多くの観光客が訪れている。だが国内ではギリシャ人が山岳地帯に逃げ込み、パルチザンと化して抵抗運動を開始。パルチザンの跳梁に手を焼いたドイツ軍は、1人のドイツ兵が殺されるたびに50人のギリシャ人を殺害して報復。時には村ごと焼かれた事もあった。ギリシャ人の抵抗は確かに激しかったが、一方で対独協力者も存在している。1943年9月にイタリアが降伏すると、イタリアの占領地域にドイツ軍が進駐した。
1944年10月1日、ソ連軍の猛攻によりバルカン半島で孤立する事を恐れたドイツ軍がアテネより撤退開始。4日にはイギリス軍がギリシャに上陸し、10日後にアテネを解放。ギリシャからドイツ軍の姿は無くなり、ギリシャ国はそのまま消滅した。
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最終更新:2025/12/05(金) 18:00
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