シッキム 単語

シッキム

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シッキムとはインド北部に存在する州の名前で、かつてはチベット仏教教とするシッキム王国という一つのであった。

概要

現在世界地図を眺めるとヒマラヤ山脈に沿って存在するブータンネパールの間に食い込むようにしてインドの領土が存在する。これがかつてのシッキム王国、現在のシッキム州の位置である。

シッキムはブータン同様ヒマラヤ山麓に位置するだけであって南に隣接する西ベンガル州より格段に涼しく、イギリスインドを併合していた頃にはイギリス人にとっての避暑地となっていたほどである。

紅茶で有名なダージリングルカ兵で有名なグルランドの一部は本来シッキム王国の領土の一部で、イギリスに割譲した土地だった。

シッキム王国はブータン王国と非常によく似た歴史をたどってきた。何が両者を分けたのだろうか?

建国からイギリスの保護国 になるまで

チベットでの宗争いに敗れて亡命してきたチベット仏教ニンマの高僧によってされたのがシッキム王国であり、亡命したドゥク(カギの属する)座が建したのがブータン王国(ドゥック・ユル)である。両王はこれを属とみなし従わせようとするチベット(後には清朝)に抗いつつも、を拡大させていった。

しかしイギリスが進出してくると両王イギリスに敗れ、南の領土を割譲した後に条約によってイギリスの保護となった。

イギリスが両王に進出した最初の的はこれを属と見なす清朝を排除することにあったが、シッキム王国からイギリスに割譲されたダージリン地方両国の命運を分けることとなる。ダージリン産の紅茶世界で受け入れられるようになると、イギリスによって葉の栽培のために大量のネパール労働者が雇われ、第二次世界大戦が終わる頃にはダージリン地方・シッキム王国ではネパール系住民が多数となっていた。

第二次世界大戦後

1947年インド独立を果たすとシッキムに対するイギリスの立場をそのまま引き継ぎ、シッキムはインドの保護として民主化をすことが決められた。しかしそのまま選挙を行うことで移民者であるネパール系住民が政権を握ることを恐れたシッキム王室は王政維持に有利な選挙制度を制定。ネパール系住民の間ではシッキム国王への不満が高まり、王政止を望むが広がっていった。

また、当時の王パルデン・トンドゥプ・ナムゲルがあまりよろしくない人物だった。インドの属的状況に不満を持っていたパルデン・トンドゥプ王は対印強硬路線をとり、一時的に支持を集めるも結局内の対立を押さえきれずインドの介入を許してしまう。インド介入後の立法議会選挙ではネパール系住民によるシッキム会議が圧勝、民意を背景インドへの編入を準備し始める。

パルデン・トンドゥプ王はそれでもシッキム独立して行動するも、チベット系住民からの支持さえ失い、王宮に突入したインド軍によって軟禁状態に置かれた。こうして1975年、シッキム国会インドによる併合を決議したことによってシッキム王国はその歴史を終えた。

*ちなみに建の経緯から中華人民共和国はシッキムを属と見なしており、インドの併合後も長くこれを認めなかった。インドが軍隊まで動かしてまで併合を推し進めたのは、中国がこの地域を狙っていたためと考えられる。

現在

このような経緯から、現在でもシッキムはインド内で人口最小・下から二番の大きさのやや特殊な州である。革命が起こった訳ではないので王室はそのまま残り、チベット系住民も未だ人口の四分の一を占める。

の滅亡自体は国王自業自得な面が強いものの、大量の移民によって内が分裂したという事実は隣ブータン衝撃を与えた。国王の強いの下独自の文化を保ったまま近代化を現在ブータン王国の姿はシッキムを反面教師にした結果といえる。移民問題の行き着く先の一つとして、シッキム王国は記録されるべき存在であると言えよう。

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