ホシノレーシングとは、元レーシングドライバーの星野一義が率いるレーシングチームである。
1983年に星野一義がそれまで所属していたヒーローズレーシングから独立。星野自身が経営する株式会社ホシノインパルやカルソニックカンセイなどをスポンサーにつけ、かつては全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権、全日本ツーリングカー選手権(JTC)などに参戦し、現在ではSUPER GT、フォーミュラ・ニッポンに参戦している。JTC・全日本GT選手権→SUPER GTではカルソニックブルーと呼ばれる真っ青のカラーリングで参戦している。
JTCではR32型スカイラインGT-Rで参戦し、1990年は全6戦中5戦ポールトゥウインでシリーズチャンピオンを獲得した。このときの真っ青のスカイラインを覚えている人も多いのではないだろうか。
また、レースを通じて得たノウハウをもとに主に日産車向けのチューニングパーツを販売している。
| 2014年のチーム体制 | ||||
| エントラント | TEAM IMPUL 監督:星野一義 チーフエンジニア:島田次郎 |
|||
|---|---|---|---|---|
| カーナンバー | 12 | カテゴリ | GT500 | |
| マシン名 | カルソニック IMPUL GT-R | |||
| ドライバー | 安田 裕信 / ジョアオ・パオロ・デ・オリベイラ | |||
| ベース車両 | 日産 GT-R R35 | |||
| 搭載エンジン | NR20A 2リッター直列4気筒直噴ターボ | |||
| タイヤ | ブリヂストン | |||
1993年の全日本GT選手権開催以降、JSSとの混走でレギュラー参戦が1台だけだった93年を除いてSUPER GTを含め全戦参戦している唯一のチームである(ただし93年はニスモからカルソニックGT-Rとしてカルソニックブルーのマシンが出走している。このときのマシンサイドのペイントから『稲妻GT-R』と呼ばれていた。)。初年度から2シーズン連続でチャンピオンを獲得した。95年途中から2002年途中まで星野自身もドライブしていた。
2003年には最終戦富士で優勝し、前年に販売終了となった関係で、この年限りで参戦終了となったスカイラインGT-Rの有終の美を飾った。
翌年からは車種をフェアレディZに切り替え、カルソニックインパルZで参戦。2006年には井出有治がF1に進出したため、GT300クラスから星野一樹をドライバーに迎え、親子での参戦となった。
2008年から車種をGT-Rに切り替え、カルソニック IMPUL GT-Rで参戦。初戦鈴鹿ではスタート直後の第2コーナーで追突され大破するが、応急処置のあとファステストラップをたたき出しポテンシャルの高さを存分に見せ付けた。その後、第6戦鈴鹿1000km、最終戦富士で優勝しシリーズ4位でシーズンを終えた。
2009年はIMPUL カルソニック GT-Rで参戦。シーズン通して調子が上がらず、第2戦の3位が最高順位。シリーズ11位だった。
2010年はマシンの名称を再びカルソニック IMPUL GT-Rに戻し参戦。ドライバーにロニー・クインタレッリを迎えた。第4戦セパンではめまぐるしいトップ争いを制しポールトゥウインを果たした。しかしながら、この年は日産勢全体が不調(エースチームNISMOに至っては未勝利)で、インパルのシリーズ5位が日産勢最高位だった。
2011年はドライバーにジョアオ・パオロ・デ・オリベイラを迎え、前年に引き続き松田次生とのダブルエース体制とした。第1戦岡山(震災の影響で順延されたため実質上の第2戦)、トップ争いのさなかスピンに巻き込まれるアクシデントがあったが勝利。しかしその後の3戦連続ノーポイントが響き、シリーズ5位止まりだった。
2012年のドライバー体制に変更は無し。第6戦富士ではポールトゥウィンを果たした。
2013年もドライバー体制に変更は無し。第3戦セパンではポールトゥウィン。2013年の日産陣営はこの1勝のみ。
2014年シーズンは改定されたレギュレーションにより新たに規定された2014年型マシンでの参戦となる。ドライバーは松田次生がNISMOへ移籍したため、新たに安田裕信を迎えた。開幕戦では3位表彰台。第2戦富士では圧倒的なスピードでポールトゥウィン。最高速300km/hを記録した。第3戦は激しい3位争いを制し、3位でフィニッシュ。GT-Rが表彰台を独占した。
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/16(火) 16:00
最終更新:2025/12/16(火) 16:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。