星野一義とは、日本の元レースドライバー、ホシノインパル(ホシノレーシング、TEAM IMPUL)代表取締役である。日本一速い男の愛称を持つ。
息子はレースドライバーの星野一樹。
1947年静岡県安倍郡玉川村(現:静岡市葵区)生まれ。
モトクロスからレースキャリアを始め、その後4輪へ転身。1970年代から2000年代初頭まで長くレースキャリアを続けてきた。フォーミュラカー、ツーリングカーで数多くの勝利、チャンピオンを手にした。
特に日産自動車とはワークスドライバー契約を結んで以来の関係で、日産が参戦しないフォーミュラカーを除いて、日産以外のマシンで戦うことはなかった。
2002年に現役を引退。その後はホシノインパル(インパルレーシング)の監督として、SUPER GT、スーパーフォーミュラの監督を務めている。パドックの中ではテーブルをたたく姿やドライバーへ喝を入れるような怒号を飛ばし、いつしか「日本一熱いレース監督」という異名も持つようになった。
1974年にFJ1300でデビュー、翌年に全日本F2000(後の全日本F2)に昇格すると、早くも2勝を挙げてチャンピオンを手にした。その後も強さを見せ、1977年、1978年と連続でチャンピオンを手にした。
一方で富士スピードウェイで初のF1日本GP(1976年はF1選手権インジャパン)が開催されると、星野は1976年と1977年に参戦した。
1976年は昨年型のティレル007だったが、激しい雨の中のレースで3位を走行していた。しかしタイヤの摩耗が激しく、2セットしかホイールを用意していなかったことで予備のホイールがなくなり、リタイヤを余儀なくされた。
1977年には日本オリジナルのコジマKE007で参戦。予選は11番グリッドを獲得したが、決勝ではタイヤがマッチせず、2周遅れの11位完走となった。
1980年にはホシノインパルを設立、チームオーナー兼ドライバーとなった。このころから中嶋悟が台頭し、1986年までタイトルを争い続けることとなった。結果、中嶋が5度のタイトルを獲得し、星野はチャンピオンを再び獲得することができなかった。
しかし、中嶋が1987年よりF1に参戦することとなり、最後まで勝てなかった星野は悔しさをあらわにし、それ以降F1を見ることもなく、スポット参戦でのオファーがあっても断り続けた。しかし後に、日産の承諾の元にホンダのF1エンジンテスト参加していたことを明らかにしている。
1987年より全日本F3000選手権が始まると、日本や海外の若手ドライバーの壁となって立ちはだかった。その中で、1987年、1990年、1993年と3度のチャンピオンに輝いた。
この星野の強さに多くのドライバーが鍛えられ、鈴木亜久里、片山右京、中野信治、高木虎之介、エディ・アーバイン、ハインツ=ハラルド・フレンツェン、マルコ・アピチェラがF1へと巣立っていった。また、F1のレギュラーシートを外されたジョニー・ハーバートも2年間参戦し、その後復帰したF1で3勝を挙げている。
1996年にフォーミュラ・ニッポンと改められると、開幕戦で優勝を果たす。しかしチャンピオン争いはもつれ、最終戦で無念のリタイヤを喫すると、ピットに戻るなりヘルメットをすぐ脱いで床にたたきつけるほどの悔しさを見せた(それがテレビで放映されたため、後にヘルメットメーカーへ謝罪している)。この年を以てフォーミュラカーレースを引退した。
1979年に開催されたスーパーシルエットシリーズでは、日産シルビアスーパーシルエットで参戦(中身は市販車と別物)、スカイライン、ブルーバードと並んで日産ターボ軍団として戦った。
1983年にグループC規定のJSPCが始まると、当初は上記シルビアのグループC仕様で戦い、後に日産ワークス(NISMO)のオリジナルマシンで戦うこととなった。
星野は1991年、1992年とチャンピオンを獲得するがその頃になると予選で1000馬力を超えるパワーをエンジンが出すようになり、チームメイトの長谷見昌弘と無事を喜ぶほどの恐怖を味わっていた。
ル・マン24時間レースにも参戦し、1990年にはR90CPで5位、1998年にはR390(GT1規定)で3位表彰台を獲得した。
JTCへは1989年よりフル参戦。その年はR31スカイライン(GTS-R)で、4度のポールポジションを手にするが、トラブルによって結果につながらなかった。
翌年にはR32スカイラインGT-Rがデビュー、圧倒的な速さで6戦5勝しチャンピオンを手にした。
しかし、あまりにも早すぎるために参戦数が減少、GT-Rのほぼワンメイクとなってしまった。
1994年にJTCCに改められると、プリメーラで参戦。通算5勝を挙げるがチャンピオンを獲得できず、選手権は消滅した。
1995年には全日本GT選手権(現:SUPER GT)に参戦。すでに2年連続でインパルでチャンピオンを獲得した影山正彦とコンビを組んだ。しかし勝利を挙げたのは1996年の1回のみで、チャンピオンを獲れなかった。
その後、本山哲、黒澤琢弥、影山正美、服部尚貴、田中哲也ともコンビを組んだが、2000年の勝利を最後に美酒に酔うことはなく、2002年で引退を決意した。
サーキットにおいては一見豪放磊落な性格に見えるが、実は繊細な部分も存在する。現役時代にはレース前に食事をすることはほとんどなく、せいぜいバナナ1本のみで済ませるのがやっとだった。
またレースウィーク中にプレッシャーなどの影響で体に湿疹が出ていた(レースが終わると治る)。
かつてはヘビースモーカーで、火気厳禁のパドック内でも喫煙することがよくあり、車内にまで持ち込もうとしてスタッフに制止されることもあった。現在は禁煙しているとのこと。
圧倒的な実力を持つドライバーには惜しみなく賛辞を送ることが多い。
1993年のSUGOでのF3000で、馬の背コーナーを圧倒的な速さで駆け抜けるフレンツェンに対して「お前はこんなところでくすぶってないで早くF1に行け」と直接駆け寄って激励した。彼は翌年よりF1に昇格、3勝を挙げている。
一方でアーバインがF1で初勝利を果たすと、そのインタビューで圧倒的な強さを持っていた星野を賞賛していた。ところが居合わせた記者の多くが星野のことを知らなかった。
息子の一樹に対しては、レースドライバーになることは猛反対し、大学を出るまで親の言うことを聞くようしつけた。しかし卒業後もレースドライバーをあきらめていなかったことで了承をした。
その後一樹はSUPER GT、GT300クラスで2度のチャンピオンを手にしている。
今でこそスーパーフォーミュラのキャッチコピーにも使われる肩書きであるが、当初は褒め言葉ではなかった。
1970年代にすでに星野に付けられていたが、そのときには「日本一強い男」として高原敬武がいた。
予選や決勝のラップでは星野が速いが、レース戦略で高原が勝つことがよくあった。しかし高原は1980年に引退をした。
以後、星野は各カテゴリーで優勝、表彰台をかっさらうようになり、日本一速い男は最強の称号へと変化していった。
その後、本山哲が2代目として呼ばれるようになるが、多くのキャリアでインパルで戦い、星野を師匠と仰ぐほどである。彼がGTレースでのベストに挙げるのも、星野とともに優勝した2000年のMINEのレースである。
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2025/03/11(火) 20:00
最終更新:2025/03/11(火) 20:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。