セルゲイ・ラフマニノフとは、ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者である。(Sergei Vasil'evich Rachmaninoff, 1873-1943)
1873年に裕福な貴族の家に生まれる。4歳のころからピアノの手ほどきを受ける。9歳のころ一家の破産をきっかけにペテルブルグに移住し、奨学金を得てペテルブルグ音楽院に入学した。しかし不真面目だったためすべての学科で落第し、従兄で著名なピアニストでもあったジロティの勧めもあり、モスクワ音楽院に転入した。
転入後は下宿先でもあったスヴェーレフの厳しい指導でめきめきと演奏技術を上達させるが、作曲について対立があり親戚のサーチン家に身を寄せた。ここで従妹、将来の妻となるナターリャと出会った。
1891年にピアノ科を卒業。首席の金メダルをスクリャービンと分かちあう。翌年には作曲科も首席で卒業するなど怪物ぶりを発揮している。
1897年に交響曲第1番の初演が行われたが、諸般の事情により大失敗に終わる。この失敗でラフマニノフは作曲が手につかないなど完全な神経衰弱になってしまう。そんな彼を救ったのは精神科医のダーリ博士であった。暗示療法で自信をとりもどした彼は名曲ピアノ協奏曲第2番を作曲しダーリ博士に献呈した。1902年に従妹のナターリャと結婚する(当時従妹との結婚は皇帝の許可証が必要であった)。
1917年革命の渦中にあった祖国を離れたが、二度と祖国の土を踏むことは無かった。1918年にアメリカに渡り、以後ピアニストとしての活動が続いた。ホロヴィッツやクライスラー、スタインウェイとの交友が始まったのもこのころである。1943年、がんのためにビバリーヒルズの自宅で死去した。
ちなみに、晩年関節痛になやまされたほか、鬱傾向、手足や手指が極端に長かったのは、有名な遺伝病であるマルファン症候群(リンカーンの病気として有名)であったためとされる。
19世紀~20世紀にまたがって活躍した作曲家であるが、ロマン派で伝統的な調性音楽に基づいていたことは同級生のスクリャービンとは対照的である。発表当時は保守的だとしてこき下ろされたものの、現代では重要なクラシック音楽のレパートリーとなっている。息の長い旋律、重厚な和音、繁用された鐘の音のモチーフなどが特徴的である。
以下ニコニコ的な有名曲を挙げる。
自作自演:本人の演奏が多数残っている。
ピアノ協奏曲:1-4番まである。2・3番が著名。特に3番は世界で一番(ピアノパートが)難しい曲とされる。
フィギュアスケートの伴奏曲としても有名である。
前奏曲(プレリュード):Op.3-2「鐘」やOp.23-5が有名。
練習曲「音の絵」:高難易度エチュード。Op.39-6は「意味不明に凄いピアノ演奏」として有名。
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最終更新:2024/12/22(日) 14:00
最終更新:2024/12/22(日) 13:00
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