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三木 武夫(みき たけお、1907年3月17日~1988年11月14日)とは、日本の政治家である。
1907年3月16日に徳島県板野郡御所村で生まれる。明治大学法学部を卒業。1937年の第20回衆議院議員総選挙で当時の最年少記録である30歳で衆議院議員に当選。3人区の徳島県第2区から無所属で立候補して3位当選となった。
戦時下では翼賛議員同盟に入ったが、1941年の第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦は得られずに非推薦として立候補する事となった。非推薦候補である三木武夫の選挙については特別高等警察による尾行や関係者の出頭命令などの選挙干渉が多数行われた。かなり不利な状態での選挙だったが3人区での3位で最下位当選した。
戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙では無所属で立候補してトップ当選。同年6月には協同民主党に入党。
協同民主党は他党と合流して国民協同党になり、同党の党首となる。
国民協同党が日本社会党や民主党と連立して、日本社会党委員長の片山哲を首相とする連立内閣を発足させて与党になると、連立与党の党首として逓信大臣に入閣した。同じ連立で民主党の芦田均を首相とする連立内閣では国民協同党からは岡田勢一が運輸大臣として入閣して、三木武夫は閣外の与党党首となった。
1954年に日本民主党に所属していた三木武夫は第1次鳩山一郎内閣で運輸大臣に就任。1955年11月15日の保守合同に際して自由民主党の所属となる。
1974年12月9日に第66代内閣総理大臣に就任。三木武夫内閣は自民党の政権だが、政治資金規正法の改正やロッキード事件への対応など過去の自民党政権に対して厳しい姿勢をとったため、党内の反主流派からは「三木おろし」といわれる激しい倒閣運動が起こった。1976年の第34回衆議院議員総選挙は「ロッキード挙」と言われ、解散を伴わない日本国憲法下で初の任期満了に伴う衆議院議員総選挙となった。この選挙で自民党は議席を減らし、その引責で三木武夫は日本国内閣総理大臣と自由民主党総裁を辞任した。
1988年11月14日に東京都千代田区の三井記念病院で81歳にて亡くなる。
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最終更新:2025/12/05(金) 22:00
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