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芦田 均(あしだ ひとし、1887年11月15日~1959年6月20日)とは、日本の政治家である。
東京帝国大学法学部卒業。1912年に外務省に入省して外交官となる。
1932年の第18回衆議院議員総選挙に立憲政友会の公認で京都府第3区から立候補して当選し政界入り。戦前からリベラルな立場を貫いた。立憲政友会が解党し、1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では翼賛政治体制協議会非推薦で立候補して当選したが後に翼賛政治会には参加している。
戦後は鳩山一郎率総裁いる日本自由党に参加して、1946年の第22回衆議院議員総選挙に立候補して当選。大日本帝国議会の末期となる制憲議会の第90回帝国議会で衆議院帝国憲法改正小委員会の委員長となり所謂「芦田修正」を行う。日本自由党で鳩山一郎の次に総裁となった吉田茂に反発して民主党を結党して自らが同党の総裁となる。
民主党の結党直後の1947年第23回衆議院議員総選挙で日本社会党が第一党となって樹立された日本社会党委員長を首相とする片山哲内閣に民主党は連立与党として参加し、芦田均は副総理兼外務大臣に就任した。この内閣は日本社会党と民主党の他に国民協同党も連立与党である。
片山哲内閣が政権与党第一党で首相と同じ政党の日本社会党内の党内対立により造反が起きて政権運営が困難になると総辞職し、同じ日本社会党・民主党・国民協同党連立政権の枠組みの中での禅譲という形で日本社会党総裁を首相とする芦田均内閣が発足し、ついに芦田均は第47代内閣総理大臣に就任する事となった。同内閣では日本社会党の西尾末広を副総理としている。
連立与党である日本社会党のスキャンダルの「西尾献金問題」や首相と同じ民主党内からも検挙者が出た「昭和電工事件」といったスキャンダルにより政権基盤は脆弱であり、日本社会党の西尾末広副総理が逮捕された翌日の1948年10月7日に内閣総辞職を決断、10月15日には内閣は総辞職をして、芦田均は総理大臣を辞任した。後任には野党であった民主自由党の吉田茂内閣が発足しており、日本社会党・民主党・国民協同党連立政権は下野となった。これ以降、1993年の細川護熙内閣の発足まで左派政党は日本の国政与党から遠ざかる。
前総理となった芦田均は1948年12月に昭和電工事件の疑惑により逮捕、起訴されるが無罪となる。
1955年の自由民主党の結党に参加し、自民党外交調査会会長に就任している。
衆議院議員任期の途中である1959年6月20日に東京都港区白金にて71歳で死去。
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最終更新:2025/12/06(土) 01:00
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