芦田均 単語


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人物
芦田
基本情報
生年月日 1887年11月15日
生誕地 日本京都府
没年月日 1959年6月20日
日本東京都港区白金
出身地 日本京都府
日本
本名 芦田 均(あしだ ひとし)
別名 --
職業・肩書 政治家
備考・その他
人物テンプレートボックス

芦田(あしだ ひとし、1887年11月15日1959年6月20日)とは、日本政治家である。

概要

京都府1887年11月15日に生まれた。

東京帝国大学法学部卒業1912年外務省に入省して外交官となる。

1932年の第18回衆議院議員総選挙立憲政友会認で京都府第3区から立補して当選し政界入り。戦前からリベラルな立場を貫いた。立憲政友会が解党し、1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「選挙」)では翼賛政治体制協議会推薦で立補して当選したが後に翼賛政治会には参加している。

戦後鳩山一郎率総裁いる日本自由党に参加して、1946年の第22回衆議院議員総選挙に立補して当選大日本帝国議会末期となる制議会の第90回帝国議会衆議院帝国憲法改正小委員会の委員長となり所謂「芦田修正」を行う。日本自由党鳩山一郎の次に総裁となった吉田茂に反発して民主党を結党して自らが同党の総裁となる。

民主党の結党直後の1947年第23回衆議院議員総選挙日本社会党が第一党となって立された日本社会党委員長首相とする片山哲内閣民主党は連立与党として参加し、芦田均は副総理兼外務大臣に就任した。この内閣日本社会党民主党の他に民協同党も連立与党である。

片山哲内閣が政権与党第一党で首相と同じ政党日本社会党内の党内対立により造反が起きて政権運営困難になると総辞職し、同じ日本社会党民主党民協同党連立政権の組みの中での譲という形で日本社会党総裁を首相とする芦田均内閣が発足し、ついに芦田均は第47代内閣総理大臣に就任する事となった。同内閣では日本社会党西尾末広を副総理としている。

連立与党である日本社会党スキャンダルの「西尾献金問題」や首相と同じ民主党内からも検挙者が出た「昭和電工事件」といったスキャンダルにより政権基盤は脆弱であり、日本社会党西尾末広副総理逮捕された翌日の1948年10月7日内閣総辞職を決断、10月15日には内閣は総辞職をして、芦田均は総理大臣を辞任した。後任には野党であった民主自由党吉田茂内閣が発足しており、日本社会党民主党民協同党連立政権は下野となった。これ以降、1993年細川護熙内閣の発足まで左政党日本政与党から遠ざかる。

総理となった芦田均は1948年12月昭和電工事件の疑惑により逮捕、起訴されるが無罪となる。

1955年自由民主党の結党に参加し、自民党外交調会長に就任している。

衆議院議員任期の途中である1959年6月20日東京都港区白金にて71歳で死去。

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