| OB | |
|---|---|
| 広田順 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | ハワイ準州オアフ島 |
| 生年月日 | 1925年8月3日 |
| 没年月日 | 2003年9月10日 |
| 身長 体重 |
170cm 75kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 捕手 |
| プロ入り | 1952年 |
| 引退 | 1956年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
1925年8月3日生まれ。アメリカ合衆国ハワイ準州オアフ島ホノルル出身。
ハワイ大学卒業後、日系人を中心に構成されていたノンプロチーム「ハワイ朝日」で捕手としてプレー。
1951年に読売ジャイアンツ入りしていた与那嶺要からの推薦もあり、1952年、読売ジャイアンツに入団。
入団初年度の1952年、正捕手であった楠協郎(楠安夫)を押しのけ正捕手として起用され、91試合に出場。打率.277、4本塁打、23打点を記録し、セ・リーグ制覇・日本一に大きく貢献。ベストナインにも選ばれた他、オールスターゲームにも出場。ベストナインには同年から1954年まで3年連続で受賞、オールスターゲームには1955年まで4年連続で出場を果たしている。
1953年、前年より出場数を増やし、115試合に出場。打率.243、5本塁打、39打点を記録し、セ・リーグ3連覇・3年連続日本一に貢献。
1954年、キャリアハイとなる9本塁打を放ったがセ・リーグ4連覇は逃してしまった。
以降は藤尾茂の台頭もあり、徐々に出場機会が減少していく。
1956年、36試合の出場にとどまり、同年限りで現役を引退。
引退後はハワイに戻り、アマチュア野球の指導者として活動していたが、1971年に近鉄バファローズの二軍監督に就任。翌1972年には一軍バッテリーコーチを務めた。
強気なリードと強肩を武器に活躍した捕手。走者を刺す際には、低く鋭い球を送球していたという。
クロスプレーやハッスルプレーで負傷することも多かったが、それを隠して出場を続けるタフさも持ち味であった。
日本語はかなり達者であり、水原茂監督と起用法や采配を巡って口論になることもしばしば見られたという。
| 通算:5年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 439 | 1486 | 1330 | 167 | 334 | 26 | 144 | 18 | 22 | 4 | 115 | 15 | 142 | 23 | .251 | .318 |
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最終更新:2025/12/24(水) 14:00
最終更新:2025/12/24(水) 13:00
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