文政9年(1826年)、会津藩士・佐々木源八の長男に生まれる。諱は勝任。実弟に京都見廻組与頭・佐々木只三郎がいる。
安政6年(1859年)、監察に就任。
文久3年(1863年)、京都に赴き公用人を命じられる。京都では実弟の佐々木只三郎と共に浪士取締りを主導した。
慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いに参戦するが敗走。会津戦争では若年寄として籠城し抗戦。降伏する際は秋月悌次郎と共に使者を務めた。
降伏後、責任者として幽閉されるが明治5年(1872年)、特赦により解放。その後は新政府に出仕し、香川県権参事、岡山県の区長などを務めた。
手代木は死の直前、「坂本龍馬殺害は弟の佐々木只三郎がやった」と話しており、その内容は全国に3冊のみ伝存する私家本『手代木直右衛門伝』に収録されている。
「坂本龍馬が慶応三年十一月十五日に、京都河原町蛸薬師の醤油屋方に於て幕府の壮士の刺殺されたることは史乗に詳なる所なるも、其の下手人の何者たるは今に及ぶまで明かならず。手代木翁死に先たつこと数日、人に語りて曰く坂本を殺したるは実弟只三郎なり、当時坂本は薩長の連合を謀り、又土佐の藩論を覆して討幕に一致せしめたるを以て、深く幕府の嫌忌を買ひたり、此時只三郎見廻組頭として在京せしが、某諸侯の命を受け、壮士二人を率ゐ、蛸薬師なる坂本の隠家を襲ひ之を斬殺したりと。蓋し某諸侯とは所司代桑名候を指したるなり。桑名候は会津候の実弟なりしを以て、手代木氏は之が累を及ぼすを憚り、終生此事を口にせざりしならん。前年静岡県の今井信郎なる人坂本を殺したるは自分なりとて、史談会に於て其の顚を叙し、彼は佐々木只三郎に坂本殺害の相談を受け、同人及び渡辺吉太郎なる人と同行したりといへり。是れ正に手代木翁の言に符号せり。余輩は手代木翁の人格を信じて、其の事の真実なるを疑はず」
(『手代木直右衛門伝』)
某諸侯とは文中にあるように桑名藩主・松平定敬、もしくは会津藩主・松平容保ではないかとされる。
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最終更新:2025/01/13(月) 05:00
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