毛利長秀 単語

モウリナガヒデ

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「毛利長秀」もうり・ながひで ? ~ 1593)とは、中国地方の大大名・毛利とは全く関係のマイナー毛利の一人であり、織田豊臣において狭間から小田原征伐まで戦い続けた、そこそこ評価されるべき歴戦の勇士であり、弱小に定評のあるシヴァ一族であるという説があるためか、KOEI定の低い気の毒な人である。

「毛利秀頼」ともよばれる。

信長の赤母衣衆時代~本能寺の変

毛利長秀の出自は定かではないが、彼は、名前だけの尾守護・斯波義統織田信友に殺された事件の際、毛利十郎(毛利良勝、別名新助)によって匿われた、斯波義統の遺児ではないかという説がある。

よってこの説が正しければ、織田随一の愚・斯波義銀は彼のということになる。に似なくて良かったね。(そもそも、この説は拠があるわけでもなく、歴史がそうかもしれない、と言った程度の話なので疑わしい。)

信長公記』には、桶狭間の戦いにおいて今川義元に突撃した武将の一人として、最初に名が挙げられている。

その後、信長衣衆に抜され、各地を転戦する。石山本願寺との戦いにおいて、同僚の兼正吉と協力して討ち取った敵将の首を互いに譲り合った、というエピソードが残っている。

長篠の戦い後、武田掃討戦においても信忠揮下で戦っており、岩村包囲戦においては、河尻秀隆とともに敵将・秋山信友夜襲を看破し、これを殲滅している。

1582年、武田滅亡後、武田旧領の南信濃10万石を与えられ、ついに大名となったのであった。しかし、その3ヵ後には本能寺の変が発生し、彼の運命は一変する。

信濃脱出~返り咲き

わずか3ヶでは人衆を握するのは難しかったのか、本能寺の変後に武田の旧臣の反乱に遭い、所領を捨て尾逃げ帰っている。(同じような状況で甲斐に踏みとどまった河尻秀隆は戦死してるので、この判断は正しかったのかもしれない。)

その後秀吉の下に帰参し(この辺の判断も見事だと思うのだが)、小牧長久手の戦い九州征伐、小田原征伐に従軍、軍功を上げ[要出典]、再び南信濃10万石に返り咲いている。

理解不能な相続

臨終の間際、お滅亡に定評のある斯波の血が騒ぎ出したのか、10万石の遺領を、なんと婿養子の京極高知に9万石、嫡男の秀に1万石というように分配した。

嫡男は関ヶ原で西軍につき戦死、マイナー毛利は2代で滅亡したのであった。(京極高知のほうは東軍に付き幕末まで存続。大谷吉継と死闘を演じている。)

補足

 ※信長の野望においては、一貫して斯波義銀扱いである(「列伝」の欄より)。そのためか力(特に知略、政治)がひどいことになっている。これもシヴァ呪いか・・・。

軍事 内政
群雄伝(S1) 戦闘 政治 魅力 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 政治 魅力 野望 教養
覇王 采配 66 戦闘 64 智謀 23 政治 38 野望 41
戦才 智才 政才 魅力 野望
将星 戦闘 60 智謀 39 政治 41
烈風 采配 55 戦闘 53 智謀 39 政治 29
世記 采配 智謀 政治 野望
統率 47 知略 28 政治 29
下創世 統率 47 知略 28 政治 29 教養 33
革新 統率 60 武勇 53 知略 32 政治 33
統率 60 武勇 53 知略 32 政治 33
創造 統率 57 武勇 57 知略 39 政治 40
大志 統率 56 武勇 56 知略 42 内政 40 外政 38

 

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