田淵幸一(たぶち こういち、1946年9月24日~)とは、東京都出身の元プロ野球選手である。
| OB | |
|---|---|
| 田淵幸一 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | 日本 |
| 出身地 | 東京都豊島区 |
| 生年月日 | 1946年9月24日 |
| 身長 体重 |
186cm 90kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 捕手、一塁手 |
| プロ入り | 1968年ドラフト1位 |
| 引退 | 1984年 |
| 殿堂入り | 2020年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 監督・コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
法政大学第一高等学校では準々決勝が最高成績で全国大会出場はなかった。
法政大学に進学し、1年春から公式戦に出場し、ベストナインを3回受賞した。
1968年ドラフト1位で阪神タイガースに入団した。背番号は22。
1970年には左こめかみにボールを受けてしまい、昏倒。左耳が難聴になってしまう。以降野球界には耳付きのヘルメットが使われるようになった。
1971年には急性腎炎で試合を終えてから病院に戻るという生活が続いた。このため捕手としての出場は1試合のみだった。
1972年には34本塁打。1973年4月26日、5月9日、10日の対読売ジャイアンツ戦で、同一カード7打数連続ホームランという記録を作り、1975年には最多本塁打を獲得した。
1978年オフにはトレードで西武ライオンズに移籍した。背番号は22。
1980年には捕手から一塁手にコンバートし、西武史上初の40本塁打を放った。1982年、1983年にはリーグ優勝と日本一に貢献し、1984年に引退した。
1990年にダイエーの監督に就任したが、成績不振で1992年に退任。2002年には古巣阪神のチーフ打撃コーチに就任。濱中治、関本健太郎を育成した。
2003年に、星野仙一と共に退団。2007年も北京五輪で星野の元でヘッド兼打撃コーチに就任。
2011年、星野が楽天の監督に就任すると、ヘッド兼打撃コーチに就任した。ところが、チームの打撃不振のためシーズン中に打撃コーチの任を解かれ、ヘッド専任に。翌年もヘッドコーチを務めたが、2012年限りで解任された。
通算400ホームラン打った選手の中で、2000本安打を達成しなかった選手である。
現役時代は毎年故障や病気に悩まされていた。
1977年から連載された「がんばれ!!タブチくん!!」のモデルである。
| 通算:16年 | 試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 1739 | 6875 | 5881 | 909 | 1532 | 167 | 12 | 474 | 1135 | 18 | 0 | 43 | 823 | 128 | 972 | 176 | .260 | .361 |
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最終更新:2025/12/12(金) 11:00
最終更新:2025/12/12(金) 10:00
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