小川祐忠(おがわ すけただ)とは、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した人物である。
概要
生年・?~没年・慶長6年(1601年)、度重なる危機に対して主をコロコロと変えていき動乱の戦国時代を生き残ってきた処世術の権化だが、最後の最後で失敗し没落してしまった。
近江の国人・小川家の出身。小川家は地元の名門一族である六角家の部下として活動し、後の石田三成の居城となる佐和山城の領主として勢力を張っていた。主人である六角家が衰退すると見切りをつけ、敵対勢力であった浅井家に城を明け渡し従属した。やがて浅井長政は信長包囲網に参加し織田信長との戦いに突入。祐忠も各地で転戦して領国を守っていたが、織田軍の猛攻に抗しきれないと悟り人質を差し出して降伏。柴田勝家の紹介で信長と対面し領土安堵を取り付ける事に成功。以後信長の配下となり各戦線に参加し、安土城築城にも参加している。
本能寺の変で信長が死亡すると、謀反を起こした明智光秀に組する。山崎の戦いで光秀が滅びると羽柴秀吉に降伏、なんとか許された。清須会議で自身の領土を含む北近江は勝家の勢力下となったため勝家の配下となり、柴田勝豊に仕える事に。ところが、賤ケ岳の戦いの前哨戦で上司の勝豊が寝返ったため祐忠もなし崩し的に寝返り、賤ケ岳の戦いでは秀吉方として戦った。
勝豊の死後に本格的に秀吉配下の武将として活動、秀吉の主だった戦いに従軍して活躍、文禄4年(1595年)には伊予7万石の大名にまで昇進した。醍醐の花見では茶屋を立てる名誉を得、検地でも重要なポジションを与えられているので、秀吉からは中々に頼りにされていたようだ。
慶長5年(1600年)の天下分け目の戦い・関ケ原の戦いでは文官としてか石田三成の西軍側で兵2500を率いて参戦。本戦では小早川秀秋の裏切りを警戒した大谷吉継によって秀秋軍が陣取った松尾山麓に脇坂安治・朽木元綱・赤座直保軍と共に配置された。しかし、秀秋軍の裏切りと、ソレに反応した脇坂・朽木軍の裏切りに動揺し連鎖的に寝返ってしまい、そのままの勢いで吉継軍へ殺到。軍を壊滅させ吉継を自害に追い込み、猛将として名高かった平塚為広を打ち取り、関ケ原の戦いの勝敗を決する動きを見せた。
戦後は三成の居城でありご先祖の持ち城でもあった佐和山城を攻め落とし、何とか活躍して領土安堵・お家安泰を取り付けようと必死な祐忠の気持ちが見て取れる。
寝返りにより徳川家康の天下取りに貢献した祐忠ら寝返り一味。しかし、戦後の運命は大きく分かれる事になる。祐忠は本番まで西軍として行動しその場の勢いで裏切ってしまった態度を咎められ、赤座直保と一緒に改易処分という散々な結果になってしまった。改易理由は悪政を敷いたから・息子が三成と親しかったからとも。初めから家康と連絡を取り合い寝返りを約束していた脇坂安治は東軍扱いとされ領土保全、朽木元綱は本番直前に寝返りを約束したが領土は半分に減封となった。
改易され絶望の淵にある祐忠は京に上洛しそこで隠居生活を送り、失意のまま1年後に病没した。
関連動画
関連項目
関ケ原寝返り組
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