明方ハムとは、岐阜県郡上市の特産品の1つである。 もしかして ⇒ 明宝ハム
JAめぐみのが製造するプレスハム、及びそのブランド名で岐阜県美濃地方の特産品として人気が高い一品。「真っ正直なハム」をコンセプトに、国産豚肉を厳選し、その中のもも肉だけをハム1本あたり90%以上使用し、ほぼ手作業で製造している。プレスハム以外にも、道の駅や東海北陸自動車道のサービスエリアなどで調理販売されている醤油フランク、明方ハムの姉妹品として発売された明方ボロニアソーセージなどがある。
ちなみに東海地方では、ローカルCMも放映されており、岐阜県民や愛知県民から広く知られている。また、このCMには鈴木ちなみが出演しており、明方ハムのイメージパーソナリティとして各方面にPR活動を行っている。
明方ハムとよく比較されるのが、同じ郡上市発の明宝ハムである。どちらも名前に「明」が入っていることや、本拠地が同じであるため、県外から来た観光客などがたびたび混同することが多い。
また、音読みするとどちらも「めいほう」と読みたくなってくるが、実際の読みは「明方ハム」(みょうがたハム)、「明宝ハム」(めいほうハム)と全く違う読み方なので要注意。
なお、もともとは両社とも同じ舟に乗っていた仲間であったが、ある理由により分裂して誕生した経緯がある。(これについては下記の「明方ハムの歴史」で説明する。)
ちなみに岐阜県民にとっては岐阜県版きのこたけのこ戦争の様相を呈しており、互いによきライバルメーカーとなっている。
明方ハムの起源は今から約70年前の1953年(昭和28年)にまでさかのぼる。当時はまだ奥明方村と呼ばれていた明宝地区の食料の自給体制の確立と畜産農家の収入安定を図ることを目的として、明方農協(現 JAめぐみの)が食肉加工事業を設立したのが明方ハム開発のきっかけとなる。この開発には当時国が打ち出した「新農村建設国庫補助」事業が利用されており、ユニークなアイデアとして一時注目を浴びた。
開発にあたって1955年(昭和30年)頃に村内に簡易屠場(簡単に言えば、豚をアレする所)を設置し、村内で生産されるほとんどの豚肉を加工食肉原料とすることを定め、それによって有利販売体制の確立を目指した。一方で、豚肉委託事業など農協でのバックアップ体制を充実させた。
そしてこの事業で誕生したのが明方ハムの代表格ともいえるプレスハムであった。プレスハムとは、もともと馬肉、豚肉、羊肉などの細切れ肉を寄せ集めてリテーナーと呼ばれる金属製で網目の入った筒状の容器に詰め込んでプレスし、加熱製造した低級なハムである。しかし、明方ハムでは原料には国産豚もも肉を使用し、添加物を一切使用しない安心安全な製法で作る上級志向のハムを目指した。
しかし、1950年代当時の食肉事情としては戦後直後で経済状況があまり好ましくなかったためか、食肉を買ったり食すこと自体が贅沢であるという風潮が広まっていたため、期待に反して売り上げがほとんど伸びなかったのであった。加えて、村内での知名度の圧倒的低さが売り上げが低い一因にもなっていた。
これが原因で農協の経営を圧迫し始めていたため、土産物や贈答品として郡上八幡に販売拠点を設けて経営の安定を図った。
1960年代になると、国内の肉類消費量が急速に伸び、食肉加工品の製造も倍増し、1950年代に比べて食肉事情ががらりと変わっていった。
ここでついに明方ハム躍進なるかと思いきや、日本ハムや伊藤ハムなどの大手食肉メーカーの進出により、明方ハムの売り上げは鳴りを潜めていた。
また、この頃に村内の簡易屠場を環境問題の面で閉鎖を余儀なくされる。そして1973年(昭和48年)には農協の再編が行われ、明方農協は郡上農協に吸収合併し、郡上農協明方支店となった。これを機にハム加工場を新築した。また、原料となる豚は農協系統団体から一括調達する方式に変更、地元産の豚は市場で買い支える形となった。ただ、以前として売り上げが伸び悩んでおり、実質的に農協からお荷物事業扱いとなっていた。結果として事業打ち切りの危機に幾度も直面していたが、明方村の関係者が「明方ハムは必ず人気が出てくるので、何とか努力して生産を続けて欲しい」と要望し細々と生き長らえた。
高度経済成長期真っただ中の1970年代に入ると、食卓環境が贅沢路線、自然食ブームに傾倒していき、1950年代よりは比較的気軽に食肉を食べられる時代となっていった。ここで消費者に目を付けられたのが、添加物を使わず、原料の約90%が国産豚もも肉を使用して1つ1つ手作業で製造する明方ハムであった。この安心安全な製法が再評価されて、徐々に売り上げも伸びていった。
そして1980年(昭和55年)になると、当時NHKで放映されていたドキュメンタリー番組「明るい農村」で、明方ハムの特集が放送された。これを契機として全国に知れ渡るようなり、製造本数も1980年(昭和55年)で一気に10万本、3年後の1983年(昭和58年)には19万本、その4年後の1987年(昭和62年)には約38万本達成し、販売開始から30年目にしてついに明方ハムの人気に火が付いたのであった。
この予想外の人気に生産ラインも追いつかない状況になってしまったため、工場を増設するもそれでも手狭になるほどの売れ行きとなっていった。これにより、手に入りにくい状況が続いてしまったためか、「幻のハム」という肩書きが付くほどの人気商品に成長したのであった。
そして、発売開始この躍進までの長きにわたる30年の辛辣な活動が認められ、1983年(昭和58年)には優れた営農集団に贈られる岐阜県朝日農業賞を受賞した。
農協は安定的な供給を図ってこの状況を打開すべく、明方村と協力して新工場を建設する計画を打ち出した。計画では現存の工場を拡張して増産体制をとる計画であった。また、明方村もスキー場を誘致したり、雇用の場を拡充したりするなど、若者・中堅層が村内に定着しやすいように全面的にバックアップした。
しかし、突如として農協は計画に待ったをかけた。そして、従業員確保を理由に隣町の八幡町(現 郡上市八幡町地区)に工場を移転する計画を突如として打ち出したのであった。これに対して明方村は、明方ハムは村一番の特産品であることと前述のバックアップ体制を進めていたため、強く反発。
話し合いを続けるも、結局折り合いがつかず破談。事実上の事業分裂となった。これを受けて村は地元商工会や消費組合、森林組合、畜産組合協力出資のもと、第三セクター方式で「明方特産物加工株式会社」を設立し、工場も村内に設立した。さらに社員も農協から一部技術者を引き抜いて独立させたのであった。これがのちの「明宝ハム」の製造元であり、設立後は「明宝ハム」を宣伝するために誘致計画していたスキー場の名前を「めいほうスキー場」とし、1990年(平成元年)に開業させた。さらに、村名を「明方村」から「明宝村」に変更するという大胆な行動を行っている。
一方残った農協側は、計画通り工場拠点を八幡町旭に移し、製造を再開した。「明宝ハム」側に一部技術者を引き抜かれてしまっていたため、製造面で一時暗礁に乗り上げてしまうも技術者を養成するなどして次第に克服。2001年(平成13年)にはついに生産100万本を突破した。
2003年(平成15年)には農協の再々編が行われ、めぐみの農協(JAめぐみの)が誕生。明方ハム事業はこちらに引き継がれた。
そして2005年(平成17年)には、ドイツのSUAAコンクール(食肉製品コンテスト)にて銅賞を受賞した。
「明方ハム」と「明宝ハム」、工場建設計画で噴出した引き合い問題で分裂し、拠点をそれぞれ八幡町(郡上八幡)と明宝(明方)とした両メーカーであったが、天のいたずらか平成の大合併で2004年に八幡町、大和町、美並村、明宝村、高鷲村、和良村が合併して郡上市が誕生し、不覚にも呉越同舟の形となってしまったのである。
これにより、同じ郡上市を本拠地として名乗ることとなり、熾烈なライバル合戦が繰り広げられている。そんな中、明方ハムは、ソーセージ、ウインナー製造に参入し、のちの大ヒット商品となる醤油フランクや明方ハム姉妹品の明方ボロニアソーセージを開発した。2011年には、めぐみの農協とれったひろば関店内に直営店をオープンし、店舗限定販売の「美濃ヘルシーポーク」を発売した。
そして、2013年(平成25年)には創業60周年を迎え、現在も岐阜県民のソウルフードとして愛されている。
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最終更新:2024/05/01(水) 18:00
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