山崎賢一単語

2件
ヤマザキケンイチ
1.8千文字の記事
  • 0
  • 0pt
掲示板へ

山崎賢一とは…

  1. プロ野球選手外野手
  2. ミュージシャン

この記事では1.について解説する。

山崎賢一(やまざき けんいち)とは、元プロ野球選手である。

概要

1962年7月20日生まれ。埼玉県志木市出身。

所沢商業高等学校へ進学。レギュラーとして活躍したが、3年の県大会準々決勝敗退が最高成績であった。

その後、西武ライオンズ大洋ホエールズの入団テスト受験し、大洋テストに合格。ドラフト外での入団が決まった。

入団からしばらくは二軍ぐらしが続き、二軍でも代打中心と活躍できなかった。入団4年1984年基満男打撃コーチから「ホームランバッターと競争して勝てるのか?」と言われ、長打ではなく単打を狙うスタイルに点呼することを決意。打撃フォームの改造に取り組み、バットを通常のものから、グリップが太く、重めのバットに切り替えた。キャンプでは、走塁練習時にチーム一の俊足である屋鋪要と互の脚であることがわかり、自信を深めた。

1985年、初めて一軍に昇格し32試合に出場。二軍では盗塁王を獲得している。

1986年加藤博一の負傷に伴い一軍に定着。代打・代走・守備固めと様々な役割をこなすスーパーサブとして活躍し、97試合に出場。

1987年スランプに陥り、47試合の出場にとどまったが、1988年には復調。規定打席には届かなかったが、打率.297と高打率記録し、屋からセンターレギュラーを奪ってみせた。

1989年、開幕から安打を量産し、チームは最下位に沈んでいたが、不調のカルロス・ポンセに代わり4番打者を任され、6月半ば時点で打率.372記録するなど、首位打者争いに絡む活躍を見せる。オールスターゲームにも初出場を果たし、第2戦では優秀選手賞に選ばれた。後半戦は失速したが、打率.309、7本塁打、56打点、17盗塁、9犠打記録し、ベストナインゴールデングラブ賞に初めて選出。バント盗塁もできる四番打者として、低迷するチーム希望となっていた。

1990年痛を発症し、打率.259、4本塁打、34打点、18盗塁と前年ほどの成績は残せなかったが、2年連続でゴールデングラブ賞に選ばれている。

1991年以降はR.J.レイノルズ波留敏夫の加入や、宮里太の台頭もあり出場機会が減少。

1993年オフ戦力外通告を受け、福岡ダイエーホークスへ移籍。

ダイエーでは代打や代走として活躍し、1994年には87試合に出場。ただ、1996年は一軍出場しに終わり、同年限りで現役を引退

引退後、ダイエーに残り、スカウトを1年間務めた後、二軍打撃コーチを1年務めた。

その後は再びスカウトを務め、松田宣浩明石健志千賀滉大森唯斗といった一時代を築く選手たちを担当。

人物・エピソード

シュアな打撃で安打を量産し、堅実な守備でもチームに貢献した外野手

非常に重く、他に例を見ないくらい太いグリップバットを使用していたことから、「こけしバット」と呼ばれしまれた。この称は、応援歌の一節にも使用された。なお、このこけしバットのうちの1本は野球殿堂博物館に所蔵されている。

面倒見の良い性格とつきに悪さから「番長」と呼ばれていた。後に「ハマの番長」と呼ばれる三浦大輔の先代ともいえる存在である。なお、アマチュア時代のあだ名は「組長」だったようだが、社会に出ればランクダウンするだろうと当時のコーチから番長と名付けられたものである。

オールスターゲーム出場時には、広島所属の山崎隆造と間違えてコールされている。

通算成績

打撃成績

通算:11年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 823 2299 2058 268 546 19 202 63 36 20 169 16 309 27 .265 .323

獲得タイトル・表彰

関連動画

関連項目

【スポンサーリンク】

  • 0
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

すぎやまこういち (単) 記事と一緒に動画もおすすめ!
提供: ラシュクータ
もっと見る

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

山崎賢一

まだ掲示板に書き込みがありません…以下のようなことを書き込んでもらえると嬉しいでーす!

  • 記事を編集した人の応援(応援されると喜びます)
  • 記事に追加して欲しい動画・商品・記述についての情報提供(具体的だと嬉しいです)
  • 山崎賢一についての雑談(ダラダラとゆるい感じで)

書き込みを行うには、ニコニコのアカウントが必要です!


ニコニコニューストピックス