カール・アウグスト・ウィットフォーゲル(1896~1988)とは、ドイツの歴史学者である。
概要
1896年にドイツのウォテルスドルフの教師の子として生まれ、やがてギムナジウムを卒業するとライプツィヒ、ベルリン、ハイデルベルク大学を転々とする。1920年にはドイツ共産党に入党し、1925年の『目覚めゆく中国』に代表されるようにマルクス主義理論に基づく中国経済史・社会史の成果を上げた。この時期のウィットフォーゲルはマルクスの理論に忠実で、アジアを停滞社会とし特殊なアジア的生産様式を認める立場にあった。
というわけで当然のように1932年にナチス政権が誕生すると強制収容所に収容され、ロンドン、ニューヨークで亡命生活を送った。1935年から37年まで中国に滞在し、各大学の中国社会経済史や古代史の研究者の協力で社会経済史に関する史料を収集、また実際の中国の社会調査を行ったのである。その結果中国は戦国時代の大規模な治水事業によって官僚的中央集権国家に移行していったと考え、灌漑社会こそが東洋の特徴であるとし、停滞の原因とみなしたのである。
やがて第二次世界大戦がはじまると独ソ不可侵条約に抗議してウィットフォーゲルは共産党を去った。しかし現実の中国が共産主義国家になったことは彼に強い衝撃を与えたのである。またウィットフォーゲルが提唱したオリエンタル・デスポティズム論、つまり典型的中国王朝と征服王朝に分類する征服王朝論と中国を水利社会とする文化類型学概念は、戦前とは打って変わって日本や中国の歴史学会では批判的な受容が行われたのである。やがて彼の死後ソ連が崩壊し共産主義が動揺すると、ウィットフォーゲルの再評価が行われていった。
ウィットフォーゲルはどちらかといえば理論家としては一貫しており、現実世界の激動が彼の受容に大きく関わり、また実証研究が進んだことによって彼の理論が乗り越えられていき、そのためにこのような評価の難しい人物になったのである。また彼のアジアとヨーロッパの二元論はサイードの主張する典型的なオリエンタリズムであるが、それもマルクスからリヒトホーヘンまで受け継がれた伝統の影響である。しかし、史学史において極めて重要な人物であることは否定できない、それがウィットフォーゲルなのである。
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