友鶴事件とは、1934年3月12日に発生した水雷艇友鶴の転覆事故である。
概要
事件の被害者となったのは千鳥型水雷艇三番艦の友鶴。ロンドン海軍軍縮条約で仮想敵の米英に対し不利な制約を課せられた大日本帝國海軍は、重武装を以って劣勢を覆そうとした。友鶴も例外ではなく、600トン以下の船体に12.7cm砲3門と魚雷発射管4門を装備するという二等駆逐艦に匹敵する重武装となった。速力も30ノット発揮でき、強力な艇ではあったが…。
事件の経過
1934年3月12日午前1時30分、第21水雷隊に所属する友鶴は僚艦千鳥とともに訓練のため佐世保を出港。沖合いの軽巡洋艦龍田を標的艦として予定通り訓練を始めた。しかし風速20mの強風と4mに達する波濤に襲われ、危険を感じた友鶴は午前3時25分に訓練を中止、龍田の後に続いて佐世保への帰路についた。午前3時58分、動揺により友鶴の無線機が床に落下して故障。以降は発光信号で僚艦と連絡を取る。
午前4時12分、大立島の南7海里で荒波に揉まれ、40度傾斜。さらに追い討ちの波浪を受けた事で転覆してしまった。灯火が消えたため僚艦が異変を察知し、捜索を開始。未明には佐世保鎮守府が航空機と艦艇を派遣して本格的な捜索が行われた。13時頃、艦底を見せて漂流する友鶴を発見。龍田が曳航し、翌13日午前7時に佐世保へと戻された。艇内にはまだ空気が残っており、生存者が残っている可能性があった。救助の邪魔になるマストは水中で切断し、20時に佐世保工廠へ入渠。排水を行って13名の生存者を救出した。艇長以下72名が死亡し、28名が行方不明となっている。
原因の調査
友鶴の転覆事件は海軍上層部に大きな衝撃を与えた。さっそく野村吉三郎大将が委員長を務める査問会が開かれ、原因の調査が行われた。導き出された答えは、友鶴の復元力不足であった。友鶴に過剰な武装を施した事が原因でトップヘビーになり、復元性が低下していたのである。4月2日に報告書が海軍大臣宛てに提出され、4月5日に海軍省は是正を求めた。
友鶴の設計をしたのは藤本喜久雄造船少将で、彼が設計した艦は全て再調査され重心を下げる改良工事が実施された。藤本造船少将は謹慎となり、心身ともに大きなショックを受けた影響で1935年に急逝。画期的な特型駆逐艦を生み出した偉大な親は、栄光とは無縁の最期を遂げてしまった。友鶴事件はショッキングだったが、これがきっかけで重武装路線が見直され、帝國海軍の艦船はより完成度を高めていくのだった。
ちなみに友鶴は復旧され、戦列に復帰。大東亜戦争にも参加したが、1945年3月24日に東シナ海で撃沈。
関連項目
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