大庭景親(1132~1180)とは、平安時代後期の武将である。
概要
鎌倉党の出身で、富士川の戦いあたりまでの源頼朝と戦い続けたことで極めて有名な人物。
彼の属する鎌倉党とは、平良文、もしくは平良茂を祖と称する桓武平氏のうち坂東平氏の一門である、ということなのだが、同祖の三浦党と同じく、ここも怪しいと言えば怪しい存在である。
後三年合戦で源義家に味方した鎌倉景正が最初に事績のわかる存在であり、彼から梶原氏、長尾氏、そして大庭氏といった一門が形成された。なお、波多野氏、三浦氏等と同様、源頼義が相模守の間に相模国に開発に入った家人であるとされている。
ひとまず、源頼義が平直方から与えられ鎌倉を任されたことからも信頼が見て取れる鎌倉党であったが、12世紀初頭に彼らは大庭御厨を開発した。しかし、既に後三年合戦の頃から三浦党とは仲が悪く、相模では鎌倉党、三浦党、そして中村氏が相争う状況になっていた。三浦党と中村氏はこれにおいて連携し、そのうえ源義朝の介入まで招く。つまり、大庭氏は既に河内源氏との縁も離れ、彼らに再服従を迫られていたのである。
そして、この踏み絵の結果、保元の乱では大庭景親ら鎌倉党大庭氏は源義朝に従う。なお、生年は『保元物語』で25歳とあることからの逆算である。
ところが、平治の乱には全く参加した形跡がなく、以後大庭景親は平清盛の坂東の配下としてふるまっていく。基本知行国制に依拠しつつも、やや東国支配への脆弱性を認めていた平家にとって、大庭景親はウィンウィンの関係であり、大庭景親もまた平家の権勢の下で三浦党や中村氏らへの締め付けを行っていったのである。
ところが、源頼朝が挙兵し、山木兼隆が殺される。九条兼実の『玉葉』によれば、源頼政の息子・源仲綱子息を討伐するためにこの時期大庭景親は下向してきていたらしい。これもまた、源頼朝を挙兵に踏み切らせたのかもしれない。
そして、大庭景親は弟・俣野景久や河村・渋谷・粕屋らの相模武士を率い、武蔵や甲斐、伊豆の伊東氏らも加えた大軍勢でこれにあたった。なお、彼の兄・大庭景能や豊田景俊は源頼朝軍に加わっている。彼らと大庭景親・俣野景久は権益が対立してしまっており、大庭一族は対立関係を持ち越した結果相争うこととなったのだ。
かくして、伊豆から相模の三浦党との合流を目論んだ源頼朝を10倍の兵で攻撃、さらに伊東祐親が源頼朝の後ろにいたためほぼ挟撃となった。この結果、石橋山の戦いで勝利し、真田義忠、北条宗時、工藤茂光、仁田忠俊らを討ち取った。ところが、『吾妻鏡』は梶原景時が源頼朝を見逃したとあるように、肝心の本隊を滅ぼすことはできなかったのである。
かくして、房総半島から再起した源頼朝軍は、千葉常胤や上総広常らを筆頭にした南関東の大軍勢となり、富士川の戦いで平維盛らの遠征軍が甲斐源氏に潰走したこともあり、大庭景親や伊東祐親らの立場は非常に危うくなった。
大庭景親は富士川の戦いへの合流に失敗し、河村山で1000騎を従えていたものの、不利を悟って降伏した。そして上総広常に預けられ、総大将の立場から処刑された。『源平盛衰記』によると、彼を切ったのは兄・大庭景能であったとされる。
関連項目
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