平清盛(たいらの きよもり / 1118~1181)とは、平安時代末期の政治家・武将である。
同名の大河ドラマについては平清盛(大河ドラマ)を参照。
概要
平忠盛の長男として生まれる。1153年、父・忠盛の病没によって家督を継ぎ、平家の棟梁となる。1156年の保元の乱で後白河天皇方に付き勝利、1159年の平治の乱でライバルの源義朝を破り、平家一族の武門の地位を高める。1167年に武士として初めて太政大臣に就任するが、翌年重病となり、快癒した後に出家した。
当初は後白河法皇と親密な協力体制を築き、娘・徳子を後白河法皇の皇子・高倉天皇に嫁がせて外戚関係となり、間に生まれた安徳天皇の外祖父となっては更に権勢をふるった。しかし、徐々に平家の勢力増大を警戒するようになった法皇と対立を深め、以仁王の反乱を機に再起を挙げた源氏との戦いが始まる中、マラリアと思われる熱病に倒れ、1181年に数え64歳で病没。そのわずか4年後、平家一族は壇ノ浦の戦いで滅亡した。
後世の評価
武家社会の成立において重要な功績を残した人物にもかかわらず、一般的な清盛の印象は芳しくない。その最大の原因は、「平家物語」でおごる平家は久しからずの代名詞とも言えるような悪人とされてしまい、そのイメージが定着してしまったことにある。また、源平合戦においては最終的に「源氏=勝者、平氏=敗者」となったことで、敗れた側の平氏に関する史料は散乱し、勝者である源氏方により不当な評価をされて貶められたのも大きい。
元々平家物語は琵琶法師が口伝で語り継いだものを数十年経て軍記物語としてまとめたものなので、フィクションや誇張も多く、文学的価値は高くとも歴史史料としては信憑性に欠けるところがある。例えば、孫の資盛が藤原基房に恥辱を受けたことに対して報復した話が平家物語にあるが、実際に報復したのは(平家物語では諫める役回りの)子の重盛である。歴史的評価の高い英雄ながら、長らく物語などで悪役に位置づけられていた点では、三国志の曹操に通じるものがあるだろう。
出生の謎
表向きには平忠盛の長男とされる清盛だが、生前からその誕生には様々な噂が立っていた。最も有名なのは白河法皇の落胤説であり、法皇の寵姫だった祇園女御もしくはその近親者をもらい受けた忠盛が、清盛の母親となる人物が既に法皇の子を妊娠していたのを承知の上で、後を継がせたというものである。
なぜこのような説が生まれたのかというと、清盛の朝廷における出世のスピードが父・忠盛や祖父・正盛と比べものにならない程早かったからと言われている。但し、落胤説への異論も多く、大河ドラマ「平清盛」の時代考証を務める本郷和人はこの説を否定している。
幻の都・福原
伊勢平氏は忠盛の代から、大輪田泊(現在の神戸港)を拠点に宋(南宋)との交易を行っていた。日宋貿易である。教科書ではあまり語れることはないが、あくまで国家間の交流だった遣唐使以上に、民間で交易が行われた日宋貿易が日本に与えた影響は計り知れない。平氏が急速に勢力を拡大した背景には、日宋貿易で獲得した莫大な利益によるところも大きいのである。
1180年、清盛は大輪田泊に福原京を作り、遷都を行った。その理由としては、院や寺社勢力の影響が強い平安京を離れ、自分たちの本拠地に移すことでその力を削ごうとしたからである。しかし公家たちの反発が強く、以仁王の反乱など社会情勢が不安になったこともあって、1年も経たずに平安京に戻ることとなる。翌年、清盛は病に倒れてこの世を去るが、東大寺焼き討ちの仏罰や源頼朝をはじめとする源氏の裏切りに苦しめられながら絶命した「平家物語」の描かれ方と異なり、新しき都への夢を打ち砕かれた挫折による失意こそが彼の死期を早めたのかもしれない。
関連項目
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