宗良親王(1311~1385)とは、後醍醐天皇の皇子である。
概要
尊良親王の同母弟で14歳で出家し、護良親王とともに比叡山延暦寺に入る。両親王の比叡山入りは後醍醐天皇による討幕のための策だったともいわれている。1330年には護良親王から天台座主の座を譲られており、元弘の乱のときは護良親王とともに後醍醐天皇と合流した。しかし敗戦後捕らえられた彼は讃岐へと流されている。
建武政権の成立後は天台座主に復帰し、後醍醐天皇の比叡山入りを手助けしている。和睦後は後醍醐天皇の脱出後も幽閉先の花山院にとどまるが、数か月後に北畠親房を頼って伊勢に向かい吉野入りを果たす。
そして1338年、天皇の名で遠江に下向することとなり、北畠親房、北畠顕信、義良親王(後村上天皇)ら東北部隊とともに海路に向かったが、東北部隊のほとんどが遭難して吉野に戻ったのに対し、彼は遠江に流れ着くことに成功。遠江守護の今川範国に襲撃されるが、井伊高顕、天野景隆らの協力でこれを出し井伊谷城に入る。
以降は信濃の北条時行と連携して幕府軍と戦ったが、やがて各個撃破され一度越後の寺泊まで逃れた後転戦し、1344年に信濃大河原城を奪取。その後は信濃を拠点としたが南朝の衰退を受け、1374年に吉野の賀名生にたどり着いた。すでに長慶天皇の時代になっていた中、親王は『新葉和歌集』を編集し、南北朝の合一を見る前に亡くなった。
関連項目
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