北畠親房(1293~1354)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した貴族である。
概要
北畠家は村上源氏のひとつである。北畠親房は後醍醐天皇の側近であり、世良親王の養育係を任じられていたが、正中の変、元弘の変に加わらず、世良親王亡き後出家し、元弘の乱とは無関係に過ごした。
やがて建武政権が誕生すると政界に復帰。息子の北畠顕家が陸奥守に任じられたことから、義良親王(後村上天皇)を奉じて陸奥に下向した。中先代の乱の後の足利尊氏謀反の際に上洛し、1336年に後醍醐天皇が吉野に逃れると、伊勢を掌握する。
奥州方面を担当していた息子の北畠顕家が石津で、北陸方面を担当していた新田義貞が藤島で戦死すると、ただでさえ三木一草をすでに失っていた南朝は一気に弱体化してしまう。そこで北畠親房は、1338年に次男・北畠顕信、結城宗広、宗良親王らと奥州を目指すが、暴風雨にあい親房はかろうじて常陸に上陸した。
親房は小田治久の協力で関東、奥州方面の南朝の拡大を推進する一方、『神皇正統記』の執筆で正当性を訴える。しかし高師冬が率いる北朝におされ、1341年小田城は落城。すんでのところで脱出し、関宗政の関城、下妻政泰の大宝城を拠点とするが、こちらも1343年に落城。こうして彼の関東での戦いは5年で幕を下りた。
こうして吉野に戻った彼は後村上天皇を支えるも、楠木正行らは四条畷の戦いで戦死。南朝は吉野から敗走し、賀名生に本拠地を移す目にあう。観応の擾乱で一時的に京を抑えることもできたが再び敗走し、親房は南朝の行方を見届けることなく亡くなったのであった。
なお北畠家と聞いてピンときたかもしれないが、北畠親房の三男・北畠顕能の子孫が伊勢北畠氏である。最終的には織田信長に滅ぼされるが、明治維新後久我家から分流されて再興されている。
関連項目
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