細川重賢 / 銀台(1720~1785)とは、江戸時代中期に活躍した大名である。
概要
肥後熊本藩主で細川藤孝や細川忠興の子孫。寛政期前後に改革を行った諸大名の一人。
細川宣紀の5男であり、岩瀬利可子との間に生まれる。享保17年(1732年)に民部紀雄と改称して、延慶3年(1746年)に兄の藩主・細川宗孝の養子となるまで部屋住みで過ごした。ところが延慶4年(1747年)にその細川宗孝が江戸城で刀傷事件に遭い殺害されてしまう。こうして越中守の細川重賢となって、藩主の座についた。
細川重賢は寛延元年(1748年)にさっそく改革に取り組む。というのも熊本藩は借金まみれになっており、細川宗孝の代には父の訃報に接しても江戸までの旅費すらろくにない、という有様だったからである。
こうして宝暦2年(1752年)に堀平太郎左衛門勝名を登用すると宝暦改革を実施。宝暦4年(1754年)には藩校時習館、武芸所東榭・西榭を、宝暦6年(1756年)には医学校再春館を設立。また一方で宝暦5年(1755年)には刑法改正、衣服令細則制定を行う。この間堀勝名は融資獲得に成功。櫨や楮の専売等によって財政再建を図っていった。
このような宝暦改革は『以徳政要』をはじめとして様々な書物で流布し、全国の藩に大きな影響を与えた。一方で細川重賢は武芸や書道に達し、読書家・博物学者としても高く評価され、江戸時代中期を代表する明君として知られている。
関連項目
- 0
- 0pt