日本中央競馬における二頭目の三冠馬にして史上初の五冠馬。日本競馬史上に燦然と輝く至高の名馬である。
渋い。
1964年:牡馬クラシック三冠[皐月賞(八大競走)、東京優駿(八大競走)、菊花賞(八大競走)]、スプリングステークス
1965年:天皇賞(秋)(八大競走)、有馬記念(八大競走)、宝塚記念、目黒記念(秋)
1964年啓衆社賞最優秀4歳牡馬、年度代表馬
1965年啓衆社賞最優秀5歳以上牡馬、年度代表馬
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1961年4月2日。北海道浦河にあった松橋牧場という小さな小さな牧場で、父ヒンドスタン 母ハヤノボリ 母父ハヤタケという牡馬が誕生した。牝馬かと思うほど細くて小さな馬で、その小ささに牧場主は思わず写真を撮ったという。
牧場名を「松風」と名づけられた、この額にひし形の星を持つ馬こそ、後のシンザンである。前田慶次郎の乗馬では断じてない。
ヒンドスタンは七度リーディングサイアーに輝いたほどの名種牡馬。ハヤノボリは五勝を上げている上に母系がビューチフルドリーマー系という名牝系。母父ハヤタケも種牡馬としては不振だったが競走馬としては今で言う菊花賞を勝った名馬である。実はかなりの良血馬であった。このため、当歳時に庭先取引で350万円(現在の四千万円くらい)という、無名牧場の馬にしては稀な高額で運送業者の橋元幸吉氏に買われ、京都の武田文吾調教師の元に預けられる事になった。
だが、松風は幼少時、まったく目立たない馬であった。松橋牧場が小さ過ぎる牧場であったので、乳離れが済むなり荻伏牧場へと送られ、そこで馴致が行われたのだが、とにかくぼさっとしていて動きも硬く、追い運動をしていても最後尾を仕方なくのろのろ付いてゆくだけであった。だが、非常に丈夫で、とにかく手が掛らない馬であったらしい。
2歳になり、武田厩舎に入ると松風は「シンザン」と名づけられた。ちなみに、この「シンザン」の意だがさまざまな説があり「武田調教師が孫の伸一の名と山を繋げた」というのが定説である。後に「深山」「神讃」と当て字されることになるこの偉大な名前だが、当初は「新参」と当て字されてからかわれることもあったという。
武田厩舎は当時、関西では最高の厩舎と呼ばれていた。武田文吾調教師の名伯楽ぶりはもちろんだが、所属ジョッキーで武田師の娘婿でもあった栗田勝騎手がとにかく名人であり、このコンビは1960年にコダマで春の二冠を制している。そこに入厩したシンザン。値段からすれば当然、大きな期待をされて不思議は無いところだったのだが・・・。
当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった武田厩舎。馬房制限の無い時代(60~70頭も預かっていたらしい)とはいえ、馬を預けたいという依頼は引きも切らず、しかもその年には選りすぐりの三歳馬(当時は馬の歳は数え年で表記したので今より一つ多くなる)が16頭も入ってくる事になっていて、シンザンが入るべき馬房が無かった。要するにシンザンは後回しにされたのである。シンザンはとりあえず阪神競馬場の空き馬房に入れられた。厩務員も決められなかった。酷い扱いである。
ようやく京都競馬場の武田厩舎にやってきて担当厩務員になったのが中尾謙太郎厩務員。後に厩務員出身者として初めて調教師になり、桜花賞馬ファイトガリバーらを手がけた名伯楽である。実はこの時、中尾厩務員は担当するはずだった期待馬が、厩務員同士のゴタゴタで諦めざるを得なくなってしまってがっかりしていた。そして、シンザンの垢抜けない体つきや、ぼさっとした態度をみて更にがっかりしたという。
実際、調教に行ってもシンザンは走らない。それはもう、中尾厩務員が仲間にからかわれる位走らない。しかし、中尾厩務員は次第に「なんか、こいつ凄いんじゃね?」と思い始めていたという。オーラを感じたのだろう。そのオーラを感じた男がもう一人いる。栗田勝騎手である。彼は調教でシンザンに跨った後、こう言った。
しかし、武田調教師はシンザンがそんな大物であるなんて微塵も思っていなかった。シンザンのデビューが近づき、登録の段階となって、出ようとした新馬戦に評判の高かったウメノチカラが出ようとしているのを知って「わざわざ負ける事は無いな」とシンザンを回避させた。要するに逃げたのである。
シンザンは二戦目もあっさり勝つ。新馬から二戦連続勝利。流石に周囲にも大物であると認識されても良いところであったのだが、一向にそんな事にはならなかった。なにせその年の武田厩舎には二勝馬が四頭もいたのである。中でも二冠牝馬ミスオンワードの息子であるオンワードセカンドは一番の期待馬で、武田調教師もぞっこんだった。
が、栗田騎手は言った。「オンワードセカンドとシンザンがぶつかったら俺はシンザンに乗ります」「おいおい。勝よ。シンザンよりセカンドの方が強いって」「そんな事無い。シンザンはコダマより上ですよ」
当時の関西の三歳チャンピオン決定戦は阪神三歳ステークス。武田調教師はここへオンワードセカンドを送り込んでおいてシンザンは回避させた。勝てる訳が無いと思ったのである。栗田騎手がシンザンを選んでオンワードセカンドに乗ってくれなくなるのを嫌ったのかもしれない。
シンザンは裏番組で三勝目。年明けすぐに四勝目を上げる。すごいのでは?と思うのだが、勝てそうなレースを選んでいる事は事実であったし、相変わらず調教では未勝利馬に遅れをとるくらい走らなかった。
更にこの頃、シンザンにある問題が生ずる。それは、シンザンの後脚と前脚がぶつかってしまうという問題であった。後脚の踏み込みが強い馬にごく稀に生ずる問題であるのだが、放置すると故障に繋がる。試行錯誤の挙句、後脚の蹄鉄にスリッパのようなガードを付け、ぶつかる前脚の蹄鉄の内側にT字型のバーを付けた。
これがいわゆるシンザン鉄である。この蹄鉄のためにシンザンが歩くと蹄鉄同士がぶつかって「パーン!パーン!」と凄い音がしたという。ちなみに、これはいわゆる普段履き用の蹄鉄であり、レースの時は普通の馬と同じアルミ製のレース用に履き替えている。
このシンザン鉄。普通の蹄鉄の二倍以上の重さがあったという。装着も大変で、普通の何倍もの時間が掛ったという。それがトラウマになったのか、シンザンは後々まで蹄鉄の打ち替えを嫌がったという。
この特殊蹄鉄のおかげで蹄の心配もなくなり、思い切り調教が出来るようになったシンザン。ちなみに、このシンザン鉄の重さのおかげでシンザンは調教駆けしない馬になってしまったという説もあるが、調教駆けしないのは元からだったのでおそらく関係無いだろう。重いので脚の鍛錬になったろうとも言うが、普通の馬が真似したらおそらく故障してしまっただろう。正にシンザンにしか使いこなせない「シンザン鉄」であった。
シンザン鉄の開発に手間取ったこともあり、シンザンは二ヶ月間休養を余儀なくされた(これが良かったという話もある)。復帰戦は関東に遠征してのスプリングステークス。
ところが、この遠征に武田調教師は付いてこなかった。他の馬の面倒を見なければいけなかったからなのだが、自厩舎の馬が関東の重賞に出るのに付いてこないとは・・・。どんだけ期待されていないんだという話である。一方のシンザンは、そんな人の思惑なぞなんのその、遠征先でもヌシのように落ち着いていたという。
しかしシンザンの連勝に半信半疑だったのは武田調教師だけではない。関東の競馬関係者達も同様であった。なにしろ武田調教師が有力馬との対決を避け続けた結果、4連勝中にシンザンが対戦した中で最も強かった相手と言われていたのが70万下条件馬のオークラヤマなのである。これでは評価のしようがない。さらには関西から回されてきた調教時計にも見るべき所がなく、こんな馬が本当に4連勝も? しかし関東関係者のこの疑問にはすぐに答えが出ることになった。
シンザンは関東に滞在中、同じく遠征組だったアスカとバリモスニセイの2頭と組んで調整をしていた。条件馬のバリモスニセイを先行させてアスカとシンザンが後ろから追いかける併せ調教をするのだが、アスカがバリモスニセイに並びかけバリモスニセイがアスカに追いすがろうとしてペースが上がると、シンザンは2頭に全くついていくことができなかった。調教でのシンザンは2頭に10~20馬身ほども遅れをとる馬で、実力の差は誰の目にも明かだった。
あーそういうことね完全に理解した。つまりシンザンは有力馬との対決を避けて相手の手薄な裏番組で4勝を挙げただけの馬で、一線級に混じって戦えるような馬ではなかったのだ!
関東関係者の疑問が解消された結果、スプリングステークスでシンザンは6番人気の穴馬評価となった。無敗の4連勝馬としてはありえない低評価である。
しかし調教は調教、前評判は前評判。本番とは違うのである。彼はスプリングステークスを6番人気の低評価を覆して1/2馬身差で僅差圧勝。ブルタカチホもウメノチカラもアスカもトキノパレードも”本番”のシンザンには敵わないのだ。こうしてシンザンは無傷の5連勝で重賞初勝利を飾ったのだった。
流石に5連勝。関西より関東の馬の方が優勢だったこの時代、関東へ遠征して関東馬を軒並み打ち負かして重賞に勝つなどという芸当は並大抵で出来る事ではない。武田調教師は仰天して慌てて東京へ駆けつけ「俺は目が見えていなかった。お前がこんな大物だとは知らなかった」とシンザンに頭を下げたそうである。
ちなみに、オンワードセカンドはシンザンと一緒に東上していたのだが体調を崩してオープン戦でよもやの大敗。シンザンはここに来て、武田厩舎の一番馬になり上がったのである。
そして皐月賞(この年は東京開催)。シンザンは一番人気に推されていた。それくらいスプリングステークスが強かったのである。シンザンはパドックで「牛か?」と言われる位落ち着き払っていた。シンザンは兎に角、無駄な事は一切しない馬であったという。頭が良かったのだろう。
レースがスタートするとシンザンはあっさり好位につける。前の馬を余裕十分で追走し、4コーナーで先頭に並びかける。直線中ほどでバリモスニセイを競り落とし先頭に立ったシンザン。その外から猛然とアスカが襲い掛かって来る。しかしシンザンはそのままゴールに飛び込んだのだった。着差は3/4馬身。しかし勝ち方は余力たっぷりであった。
あんなに期待されていなかった馬がクラシック勝ち馬になったのである。それだけでも十分な成功ストーリーであった。もちろん、シンザンの物語はこれからが本番だったわけだが。
シンザンの次の目標はもちろんダービー。現在なら当然直行であろうが、当時はその前に一叩きすることが多かった。シンザンもダービー前にオープン戦に出走した。ちなみに、当時の馬の遠征は汽車での大仕事であったから、シンザンはスプリングステークスから関東にいたままである。このオープン戦も東京競馬場。
ところが、ここでシンザンはヤマニンシロに負けて二着になってしまう。このレース、鞍上の栗田騎手は「使う必要は無い」と思っていたので、調教では手抜きさせ、レースも直線だけの競馬をさせてしまったらしい。もっとも、武田調教師はシンザンの調教嫌いを見抜いていたので、この時からレースを調教代わりに使い始めていたのである。
迎えたダービー。東京競馬場には入場者レコードの八万人が詰めかけ、シンザンはまたも一番人気に推された。ちなみにこの年はかの東京オリンピックの年。東海道新幹線の開通もこの年である。高度経済成長の好景気の中、日本中が活気に満ち溢れていた。東京優駿日本ダービーもこの頃から、単なる競馬界のイベントから国民的な注目を集めるイベントに生まれ変わろうとしていたのである。
27頭も出走していたこの年のダービー。シンザンは抜群に上手いスタートから好位に取り付く。上手いスタートから先団に位置するというのはシンザン得意の「型」であった。五番手の「ダービーポジション」で第一コーナーを通過。そのまま内ラチ沿いで前を視界に入れ続ける。そして直線。スーっと先頭に立ったシンザンは栗田騎手の鞭に応えて、しぶとく食い下がるウメノチカラを一馬身引き離すと、そのままゴール。実にあっさりと勝ってしまった。
馬というのはレースで一杯に追われると興奮してしまい、ゴールした後も走り続けて騎手の制止を聞かなかったり外ラチへ飛んでいって騎手を振り落としたりするものである。しかしシンザンはゴールラインを通過するとどの馬よりも早く止まってさっさと引き上げてきたそうである。このダービーの時も息も乱していなかったという。要するに本気で走っていないのだ。
栗田騎手は「鼻差勝ちでも勝ちは勝ち」という信条の持ち主であった。このダービーもゴール前ではほとんど追っていないのが動画で確認出来る。
前年のメイズイに続く二冠馬誕生に超満員の東京競馬場は大いに沸き立ったのであった。
二冠を制したシンザン。もちろん、史上二頭目、戦後初の三冠馬の期待が掛かるところであった。もちろん、夏は休養。涼しい北海道へ行って英気を養い・・・。
と思ったら大間違いだった。武田調教師はシンザンを京都で夏越させることにしたのだった。京都の夏といえば暑い事で、不快な事で有名。厳しいぞ武文!
しかもこの年の夏はよりにもよって猛暑だった。実は元々夏が苦手だったシンザンはすっかり夏負けに掛ってしまう。いやいや大変だ。慌てた武田調教師や中尾厩務員は、馬房に大きな氷を何個も吊って冷房代わりとしたのだという。
ようやく体調が回復したのは九月に入ってから。十月の秋初戦。体調不良を考慮してただのオープン戦に使ったのだが、ここを二着に負けてしまう。まぁ、これは調教代わり。これで気合が入ってくれれば・・・。
しかし続く京都盃も二着。あああ、コダマ、メイズイに続いてまたも三冠馬は駄目か~。秋の二連敗を見たファンはすっかり諦めてしまう。しかし、十月も終わり、京都盆地から残暑が一掃されると、シンザンの体調は一気に良化した。
菊花賞。シンザンは二番人気だった。一番人気はダービー二着のウメノチカラ。前哨戦をしっかり勝っていた馬である。三冠が懸かった馬が一番人気にならないなんて当時のファンは厳しいなぁと思うかもしれないが、前年、シンザンよりも期待されていたメイズイが菊花賞でよもやの敗戦を蒙っており、それがファンのトラウマになっていたのかもしれない。
このレースで武田調教師は珍しく栗田騎手に指示を出した。武田調教師は栗田騎手を全面的に信頼していたので、彼に指図をすることなどほとんど無かったのである。
そしてレース。シンザンは例によってむちゃくちゃ上手いスタートから先頭に立とうかという勢いだった。しかし外からシンザンを交わして思い切り良く飛ばして行ったのが、二冠牝馬カネケヤキである。
カネケヤキは一気に吹っ飛んで行って、向こう正面では二番手に五馬身以上の大逃げとなった。牝馬とはいえ二冠馬。楽に逃がしてよいものだろうか。後続馬の騎手たちは迷っただろう。しかしシンザンと栗田騎手は武田調教師の言葉を守って動かない。堪え切れなくなったのか、一番人気のウメノチカラがシンザンを交わして追走に掛った。
カネケヤキが先頭で4コーナーを回る。そこへ襲い掛かるのはウメノチカラ。シンザンはまだ来ない。「どうしたシンザン!三冠は駄目か!」場内実況が悲鳴を上げた。
栗田騎手はウメノチカラがカネケヤキを捉えるのを見てからシンザンにゴーサインを出す。するとシンザンは恐るべき切れ味を発揮。ウメノチカラを並ぶ間もなく交わして突き抜けると、三馬身近い差を付けて栄光のゴールを駆け抜けたのである。
京都競馬場はうお~っと大歓声。セントライト以来23年ぶりの三冠達成。いや、戦前の競馬とは何もかも比較にならない戦後の競馬である(実際、レースローテも違う)。シンザンの偉業は「史上初」と言い切っても過言ではないだろう。数々の困難を潜り抜けての三冠達成。関係者の感慨もひとしおだった。
菊花賞の疲れが出て、年内一杯を休養したシンザン。翌年、春の天皇賞へ向かう予定だったのだが・・・。
蹄鉄の寸法が合わなかったというミスで体調不良に陥り、天皇賞を回避する羽目になる。まぁ、ここで強引に使わないところが如何にも武田調教師である。なに?アサホコから逃げたんだってって?ははは、そ、そんな馬鹿な(汗)。仕方が無いので体調を回復させつつ、宝塚記念を目指す事になった。ちなみに、この時まだ宝塚記念はG1クラス(当時は三冠と牝馬二冠、天皇賞(春・秋)、有馬記念を八大競走と言った)ではなかった。
調教代わりのオープン戦を二つ勝って、宝塚記念では当然の一番人気。シンザンは苦手な不良馬場を克服してこのレースを勝利した。これを今に当てはめてG1勝ちと認めれば、シンザンの称号は「六冠馬」になるのだが。
それはそうと、このレースの前、体調がようやく回復したシンザンは面白い事をやっている。乗り運動のために武田博騎手が跨り、厩舎の前に出た時の事。
シンザンがいきなり後脚だけで立ち上がり、ひょこひょこ器用に歩き出したのである。見ていた人々は仰天。武田騎手は落ちないようにシンザンの首にしがみつくのみ。
シンザンはそのまま50mも歩くと、唖然呆然とする人々をよそに、平然と身体を戻し歩き去って行ったという。何がしたかったんだシンザン。
この後脚で立って歩くというのはシンザンの得意技だったらしく、後年種牡馬になってからも良くやっていたらしい。こういうことは腰の強い馬(サッカーボーイとか)が稀にやってみせるらしいのだが、流石に騎手を乗せたままやらかした馬は多分シンザンだけである。
苦手な夏を乗り越え(また北海道には行かせえもらえなかった)シンザンは秋になり、いよいよ残るタイトルを獲得すべく始動した。
阪神のオープン戦を勝った後、関東で伝染性貧血病騒ぎがあったせいで遅れたものの東上。目黒記念を63kgをものともせずに勝利。天皇賞(秋)へと向かう。当時は東京競馬場3200m開催である。
このレース、シンザンの単勝は元返しであった。100円。勝っても儲からない馬券。これが、ファンがシンザンに与える賛辞であった。だがもちろん、同レースに出てきた馬たちはシンザンを負かす気満々である。特に「闘将」の名で呼ばれた加賀武見騎手はひそかにミハルカス鞍上で一泡吹かせてやろうと狙っていた。
スタートすると、ミハルカスは大逃げを打った。向こう正面では20馬身のリード。おおお、凄いぞ!流石は加賀!どうするんだシンザン!
・・・しかし、盛り上がったのはここだけだった。大ケヤキの手前で二番手に上がったシンザンは、直線では大外を通って一気に伸び、粘るハクズイコウを振り捨ててゴール。着差は二馬身。しかし脚色の違いは明らかだった。強過ぎる。ファンは感動の溜息を吐いた。
天皇賞の直後、シンザンは五歳一杯での引退が決まった。「シンザンの名を惜しむ」と武田調教師は言ったのだが、当時はジャパンカップは無く、天皇賞には勝ち抜け制度のせいで二度と出られなかった上、短距離路線は軽視されていた。もう出るレースがほとんど無かったのである。海外遠征は難しい時代で、もちろん成功例はほとんど無かった。
引退を決めた以上、有馬記念は勝たなければならないレースだった。武田調教師は考えた。
実はシンザンはここまで、中山競馬場で走った事が無い。四歳のスプリングステークスも皐月賞も東京開催だったのである。シンザンにある懸念といえばこれだけだった。武田調教師は有馬記念一週前のオープン戦にシンザンを使う事を決める。
ところがこれに大反対したのが栗田騎手である。連闘で有馬記念なんて無茶過ぎる。初コースだろうがなんだろうがシンザンは負けない。俺が勝たせる!そう主張した栗田騎手だったが、武田調教師は自説を曲げない。
栗田騎手の反対を押し切って出走したオープン戦。ちなみに、このレースの鞍上は武田博騎手。このレースに限らず、斤量の重いレースでは見習い騎手だった武田騎手が栗田騎手に代わってシンザンの手綱を取っている(見習い騎手は斤量が3kgも軽くしてもらえた)。しかしこのレースでシンザンはまさかの負けを喫するのである。
これを聞いて栗田騎手は大荒れに荒れた。彼はなんと調整ルームを飛び出して飲み屋に駆け込み、大酒をかっ食らった挙句に病院へと担ぎ込まれたのである。自分が乗らないシンザンが負けたのがよほど無念だったのだろうか。それにしたってプロの騎手にあるまじき所業で、大不祥事である。
困ったのは武田調教師、中尾厩務員。誰よりシンザンである。こんな不祥事を起こされては翌週の有馬に栗田騎手は乗せられない。つまり、騎手がいないのだ。シンザンの手綱を任せられる騎手を探した挙句、結局、栗田騎手の弟弟子の松本善登騎手鞍上で有馬記念に臨むこととなった。
その有馬記念。ミハルカス鞍上の加賀騎手はまたも虎視眈々と作戦を練っていた。ポイントは、雨上がりで荒れ放題の内馬場の状態だった。
スタートが切られると、シンザンはいつも通りの好位を占める。なんというか、どこかの三冠馬どもに参考にさせたいような惚れ惚れとするスタートである。先頭はミハルカス。しかし、天皇賞ほどは行かない。ん?加賀にしては中途半端ではないか・・・?しかし加賀騎手はシンザンを引き付けなければ出来ない作戦を思い描いていたのである。
4コーナーで後続を思い切り引き付けたミハルカス。加賀騎手はシンザンの気配を感じながら馬を斜行寸前なくらいに大外へ振った。
これでシンザンはミハルカスの内へ入るしかない。内馬場は不良と言って良いほど悪い。しかもシンザンは不良馬場がそれ程得意ではない。シンザンを内馬場へ突っ込ませておいて、その隙にミハルカスをゴールに逃げ込ませる。これが加賀騎手の作戦だったのである。
それにしても思い切り良くミハルカスは大外へ。シンザンは一瞬行き場を失ったように見えた。加賀騎手は作戦の成功を確信した。
ところが、加賀騎手はミハルカスの左側に圧倒的な迫力を感じて総毛立つ。そんな馬鹿な。ミハルカスと外ラチの間には馬一頭が入れるかどうかの隙間しかないはず!しかし恐るべき脚でミハルカスに外から襲い掛かってきたのは間違いなくシンザンであった。
その時、観客席では悲鳴が上がっていた。シンザンがあまりに大外に寄ってしまったために、最前列の観客に隠れて視界からシンザンが消えてしまったのだ。「外ラチぶち破って観客席に飛びこんだんじゃないか!?」TVの画面からもシンザンは消えてしまい、アナウンサーは一瞬絶句。
しかし次の瞬間、武田調教師が「鉈の切れ味」と褒め称えた分厚く力強い末脚を飛ばして先頭に立ったシンザンが「現れる」。場内は一転大歓声。シンザンはミハルカスに約二馬身の差を付けて「五冠」のゴールへと飛び込んだ。中山競馬場は偉業達成に大きく揺れた。
馬を下りた松本騎手は「ありゃ、誰が乗っても勝てる」と呆れたように言ったという。あの加賀騎手の作戦を葬り去ったまさかのコース取りは、松本騎手がとっさに取ったという説と、シンザンが自ら選び取ったという説があるのだが、いずれにせよシンザンの能力が、加賀騎手の予想を遥かに上回ったのだという事だけは言えるだろう。
シンザンはこのレース後、予定通り引退。史上初となる東京と京都での二度の引退式を行い、惜しまれつつターフを去った。
引退後、種牡馬入りのために北海道へと汽車で向かったシンザン。中尾厩務員が付き添っての四泊五日の旅だったという(高速道路等のインフラがまだ整備されていない発展途上の時代での長距離輸送は過酷そのものだった故に現役時代に放牧を行わなかったのも仕方がなかったのかもしれない。)。途中、米原の操車場でシンザンに会いに来た男がいた。栗田騎手である。栗田騎手は貨車の中に入り、シンザンの前で無言で佇んだという。
皐月賞、日本ダービー、菊花賞、天皇賞(秋)、有馬記念。当時出られる牡馬の大レースは全て制したと言える。通算19戦15勝二着4回。いわゆる連対率100%を達成しており、これは今に至るも日本記録である。特筆すべきは本番の大レースに一度も負けなかった事であった。
非常に上手いスタートから自分のペースを守り、勝負所でグワッと抜け出し、後続の追い込みを見ながら脚色を調節し、先頭を守ってゴール。大レースは常に万全のこの「型」で勝っている。着差がいつも僅かなので当時のファンの中には「そんなに圧倒的に強いとは思っていなかった」という人も多かった。だが、栗田騎手は「レコード出す気なら何ぼでも出せるよ」と言ったそうである。レースなんて勝てば良いので、出さなかっただけだと言うのである。おそらく事実であろう。
なにしろ調教では走らない馬であったので、大レース前にはオープン戦を調教代わりに使っていた。武田調教師曰く「レースを一つ使うと調教三回分の効果がある」と言ったとか。それでオープン戦で三回も負けている(全て二着)。連対しているのだからいいじゃん、と思うかもしれないが、当時の馬券は枠番連勝単式なので二着では駄目だったのである。大川慶次郎氏は「ファンを馬鹿にしている」と怒っていたそうだ。
ちなみに大川氏はシンザンの馬体が好みに合わず、徹底して本命を打たなかったおかげでシンザンが出たレースの予想は全て外してしまったそうである。大川さんのそういうとこ大好きでしたよ。
レース振りに派手さが無いために、史上最強馬論争が行われる際には「まぁ、まずはシンザンだろ?」と筆頭に名前が挙げられる存在でありながら、それほど熱烈に推される事も無い。しかし競馬関係者からの評価は非常に高く、20世紀最強馬を競馬関係者が挙げるという雑誌Numberの企画で、シンザンはシンボリルドルフに三票差をつけて一位に選ばれている。
種牡馬入りしたシンザンは当然、大きな期待を集めた。
というのは当時は輸入種牡馬が持て囃されており「いくら活躍した馬だって、輸入した種牡馬にはかなわねえ」というのが定説だったのである。トサミドリ等の成功例も中にはあったが、やはり海外からの輸入に頼らなければならなかったのである。この傾向は米国から輸入されて大流行したサンデーサイレンスの子孫が定着するまで輸入全盛の時代が続いたのだから相当根深いものだったのだ。
当時の馬産レベルは日本が欧州より数段遅れていた事は事実であった。このため、例え栄光の五冠馬シンザンと言えども、集まってくる牝馬は二流レベルに留まった。種牡馬の成功には牝馬の質が不可欠。繋養先の谷川牧場はシンザンのために奔走したという。
ところが、シンザンは期待以上の成績を上げ始めたのである。スガノホマレ、シルバーランドなどが快速で名を馳せ、次々と重賞勝ち馬が誕生。生産界、馬主たちは驚き、このシンザンの活躍が彼らに内国産種牡馬へ目を向かせるきっかけになった。シンザン以外の内国産馬の種牡馬が注目を浴びるようになるのは70年代の競馬ブーム到来辺りまで待たなければならないが、それでも内国産馬不遇の時代の中気を吐き続けたのだ。
クラシック級の馬はなかなか出なかったが、1978年生まれのミナガワマンナが菊花賞を親子制覇。そして晩年の傑作1982年生まれのミホシンザンが皐月賞、菊花賞、天皇賞(春)を制覇。シンザンに更なる栄光を齎したのだった。残念ながら2008年まで岩手で走ったマイシンザン(ミホシンザンの子)産駒のシルクセレクションの引退をもって直系は途絶えてしまったが、日本競馬に大きな足跡を残した一頭だった。
シンザンは26歳まで種牡馬を続けていたが、さすがに授精能力が低下してきたこともあり、1986年の種付けを最後に種牡馬稼業を引退した。1969年から1992年までの24年連続産駒勝利は当時の日本記録、産駒の重賞勝利数49勝は内国産種牡馬としては当時トサミドリの55勝に続く2位だった。前者の記録はノーザンテーストが更新する2003年まで、後者の記録はフジキセキに抜かれる2010年まで維持していた。
種牡馬引退したシンザンは谷川牧場でゆっくりと暮らした。牧場でシンザンの世話をしたのは斉藤優氏である。牧場に帰ってからやや気難しくなったシンザンを支え、次第に互いに唯一無二のパートナーとして認め合うようになっていった。
馬主の橋元氏、栗田騎手、松本騎手。そして武田文吾調教師が亡くなってもシンザンは長生きした。晩年は目がほとんど見えなくなって、背中は落ち窪み、見るからに老馬といった見た目になって尚、その威厳は周囲を圧倒した。
1995年11月19日、同期の二冠牝馬カネケヤキが2ヶ月前にイサベリーン(満34歳193日)から更新していたサラブレッド最長寿記録(満34歳231日)を抜き、更に1996年5月3日にはアングロアラブの名馬タマツバキ(満35歳31日)の記録も抜いて軽種馬最長寿記録も更新。日本における軽種馬・サラブレッド・JRA重賞優勝馬の最長寿記録三冠を達成した。
そして1996年7月13日、シンザンはこの世を去った。数え年36歳(満年齢35歳102日)だった。1984年にJRA顕彰馬に選出されている。
なお、軽種馬の最長寿記録は2011年6月28日にアングロアラブの牝馬マリージョイ(競走名スインフアニー)が更新、さらにサラブレッドの最長寿記録は2014年8月26日にシャルロット(競走名アローハマキヨ)が更新(後に軽種馬最長寿記録も更新)、2019年8月15日にはマイネルダビテがJRA重賞優勝馬の最長寿記録を更新した。⇒競走馬の長寿記録一覧を参照。
その完璧な競走戦績、素晴らしい種牡馬成績。最長寿記録。それだけで既に伝説。それに加えて数々のエピソードに彩られたシンザンの物語は正に神話と言うに相応しい。
シンザンには並外れた身体能力と賢さがあり、それが数々の偉業を成し遂げる原動力になった事は間違いない。しかし、いかなる名馬にも言える事であるが、名馬が存在する時、その周りには優れたスタッフがいるのだ。彼らの献身的な支えが馬の素質を開花させ、名馬を創り上げるのである。シンザンの物語を思う時、武田調教師、栗田騎手、中尾厩務員、谷川牧場の斉藤氏の素晴らしさを思わないわけにはいかない。
かつて言われた「シンザンを超えろ!」の掛け声は、つまるところシンザンを支えたスタッフたちを超えることに他ならないのではないだろうか。
今や海外遠征を次々と成功させ、世界中に雄飛する日本競馬。その礎には間違いなくシンザンとシンザンを支えたスタッフがいたと思う。シンザンという目標があり「シンザンを超えろ!」と邁進して来たからこそ日本競馬が進歩したのだと思うからである。
*ヒンドスタン 1946 黒鹿毛 |
Bois Roussel 1935 黒鹿毛 |
Vatout | Prince Chimay |
Vasthi | |||
Plcky Liege | Spearmint | ||
Concertina | |||
Sonibai 1939 黒鹿毛 |
Solario | Gainsborough | |
Sun Worship | |||
Udaipur | Blandford | ||
Uganda | |||
ハヤノボリ 1949 栗毛 FNo.12 |
ハヤタケ 1939 鹿毛 |
*セフト | Tetratema |
Voleuse | |||
飛龍[1] | *クラツクマンナン | ||
*オーフロラ | |||
第五バツカナムビユーチー 1941 栗毛 |
*トウルヌソル | Gainsborough | |
Soliste | |||
バツカナムビユーチー | *シアンモア | ||
第三ビユーチフルドリーマー | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Gainsborough 4×4(12.50%)、Sun Worship 4×5(9.38%)、Gallorette=Pretty Polly 5×5(6.25%)
父ヒンドスタンは1949年アイリッシュダービー優勝馬で計8戦2勝。
母ハヤノボリは平地で47戦5勝。障害も走り4戦1勝の成績を残している。
母父ハヤタケは京都農林省賞典四歳呼馬(現:菊花賞)優勝馬。
JRA顕彰馬 | |
クモハタ - セントライト - クリフジ - トキツカゼ - トサミドリ - トキノミノル - メイヂヒカリ - ハクチカラ - セイユウ - コダマ - シンザン - スピードシンボリ - タケシバオー - グランドマーチス - ハイセイコー - トウショウボーイ - テンポイント - マルゼンスキー - ミスターシービー - シンボリルドルフ - メジロラモーヌ - オグリキャップ - メジロマックイーン - トウカイテイオー - ナリタブライアン - タイキシャトル - エルコンドルパサー - テイエムオペラオー - キングカメハメハ - ディープインパクト - ウオッカ - オルフェーヴル - ロードカナロア - ジェンティルドンナ - キタサンブラック - アーモンドアイ - コントレイル |
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競馬テンプレート |
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中央競馬の三冠馬 | ||
クラシック三冠 | 牡馬三冠 | セントライト(1941年) | シンザン(1964年) | ミスターシービー(1983年) | シンボリルドルフ(1984年) | ナリタブライアン(1994年) | ディープインパクト(2005年) | オルフェーヴル(2011年) | コントレイル(2020年) |
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牝馬三冠 | 達成馬無し | |
変則三冠 | クリフジ(1943年) | |
中央競馬牝馬三冠 | メジロラモーヌ(1986年) | スティルインラブ(2003年) | アパパネ(2010年) | ジェンティルドンナ(2012年) | アーモンドアイ(2018年) | デアリングタクト(2020年) |
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古馬三冠 | 春古馬 | 達成馬無し |
秋古馬 | テイエムオペラオー(2000年) | ゼンノロブロイ(2004年) | |
競馬テンプレート |
掲示板
267 ななしのよっしん
2024/05/31(金) 14:51:45 ID: A9YPd0wAnf
どうせシンボリルドルフやディープインパクトも数十年後に今のシンザンのような扱いになるし、野球で言えばイチローや大谷だっていずれそうなる
まさかディープだけは未来永劫最強馬として語られる、とか思ってないだろうな
268 ななしのよっしん
2024/09/10(火) 02:20:40 ID: msuwVmFbxY
>連対しているのだからいいじゃん、と思うかもしれないが、当時の馬券は枠番連勝単式なので二着では駄目だったのである。
とあるが、枠単から枠連に切り替わったのは1963年からで、シンザンが3歳の時は1964年なんでもう枠連の時代じゃないの?
269 ななしのよっしん
2024/09/30(月) 17:53:18 ID: dl1O1gjIlh
ラジオ切り忘れても平気でバクスイしてたって図太いエピソードがある一方、飼葉桶のエサはキッチリ綺麗に分けないと怒って食べない拘りと繊細さがあったのね。
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最終更新:2024/11/08(金) 00:00
最終更新:2024/11/08(金) 00:00
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