もともと、この曲は1797年にオーストリアの作曲家、ハイドンが神聖ローマ帝国→オーストリア皇帝フランツ2世のために「神よ、皇帝フランツを守り給え」として作曲しものである。この曲の旋律は、後に同じハイドンの曲である弦楽四重奏曲第77番「皇帝」の第2楽章にも用いられ、19世紀になると賛美歌(194番「さかえにみちたる」など)などとして、別の国の別の作詞家が作った歌詞を載せて歌われるようにもなった。
そんな感じでオーストリア帝国→オーストリア・ハンガリー帝国の国歌となっていた「神よ、皇帝フランツを守り給え」であるが、1841年、この曲へドイツの作曲家ファラスーレーベンがドイツの統一を願った歌詞をつけた。これが「ドイツの歌」である。
第一次世界大戦後、ドイツでヴァイマル共和政が発足した後、正式にこの曲がドイツの国歌とされることとなった。一方、オーストリアでは帝政が崩壊して共和制が発足したため、同国国歌としての地位を失った。
第二次世界大戦による東西ドイツ分裂後、ナチ党政権時代も歌われた「ドイツの歌」を国歌とすべきかどうかで議論が沸き起こった。
しかしながら西ドイツ(ドイツ連邦共和国)においてはこの曲に変わるものを見出すことができず、結局1952年からこの曲が再度国歌として採用された。一方、東ドイツ(ドイツ民主共和国)においては「廃墟からの復活」が新たに作詞作曲され、国歌とされた。
なお、ドイツ連邦共和国こと西ドイツの国歌として採用されたのはこの曲の3番のみである。
1番はナチ党政権時代に積極的に用いられた歌詞であり、覇権主義を連想させること、更には歌詞に含まれるドイツの境界線が、二度の大戦を経て縮小したドイツ領土からは大きくかけ離れ、他国の領土に存在する河川・海となってしまっていることから、そして2番は歌詞が俗的に過ぎるとのことで、西ドイツの国歌には採用されなかった。
また、第二次大戦前には4番の歌詞が追加で作られていたが、大戦後には忘れ去られ、やはり西ドイツの国歌とはならなかった。
一方、3番の歌詞は1841年当時まだ諸国の集まりであり、単一国家とはなっていなかったドイツの統一(オットー・フォン・ビスマルクによるドイツ帝国の発足は1871年)と、正義・自由を確立するという将来の展望、更にはその目的のための国民の団結を歌ったものであり、第二次大戦後、冷戦によって東西に分裂してしまったドイツを民主主義国家として再統一するという西ドイツの願いに奇しくも合致していた。
それゆえ、3番のみを西ドイツは国歌として採用することにしたのである。
西ドイツの願いとなる民主主義国家としてのドイツ再統一は、ベルリンの壁崩壊に象徴される東西冷戦終結により、1990年に西ドイツが東ドイツを吸収するという形で実現した。
1991年、「ドイツの歌」は再統一後のドイツ連邦共和国でも国歌として利用し続けることが決定され、21世紀の今日に至ってもそれが続いている。
一方、オーストリアでは帝政崩壊後に国歌が幾度か作りなおされており、第二次大戦後の1946年からは「山岳の国、大河の国」が国歌とされている。オーストリア人の中には、オーストリア人のハイドンによって作られた曲が、現在ではオーストリアではなくドイツの国歌として用いられていることを、快く思わないものがいる。
ドイツ民主共和国の国歌(廃墟からの復活) / オーストリア共和国の国歌(山岳の国、大河の国)
掲示板
13 ななしのよっしん
2020/07/26(日) 17:50:04 ID: T9mPUS8wPm
一番は肩肘張った外向け、二番がちょっと緩んだ息抜き、ここまでが前振りで本当に言いたかったのは三番とかなんじゃないかな……ナチス以前から。
14 ななしのよっしん
2021/04/03(土) 21:41:10 ID: /MdkCVMNEc
また今年もメルセデス強いから沢山流れるんやろうな(風物詩化)
15 ななしのよっしん
2023/12/11(月) 23:29:48 ID: qQhxxl2LI4
4番哀愁漂ってて好き
もっといろんな人たちに知って欲しい
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最終更新:2024/09/20(金) 00:00
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