山崎裕之 単語

ヤマザキヒロユキ

1.2千文字の記事

山崎裕之とは、埼玉県出身の元プロ野球選手内野手)である。現在プロ野球中継の解説者を務めている。

概要

上尾高校では「長嶋二世」と騒がれ(大宮球場バックスクリーンに、長嶋茂雄以来の本塁打叩き込んだことが理由)、1965年に当時としては破格の契約金5千万円で東京オリオンズに入団した(オリオンズのスカウトが一番熱心に誘ってくれたからだという)。

高卒1年から7番ショートで開幕スタメンの座を掴み、翌日の試合先発尾崎行雄投手から初安打を放った。4年1968年にようやくレギュラーに定着し、翌1969年セカンドコンバートして打率.301リーグ5位)を記録し、初のベストナインに選出された。

その後もオリオンズの力選手として活躍するが、1978年シーズン終了後にヤクルトスワローズとの間でトレードの話が持ち上がる。結局不成立に終わったものの、山崎の立ち位置は宙ぶらりんとなってしまう。事情を察した西武ライオンズ根本陸夫監督ロッテオリオンズにトレードを持ちかけ、古賀正明・倉持明との交換でトレードが成立した(ロッテからは成重生も移籍)。

移籍1年となる1979年山崎は故障で出遅れてしまい、ライオンズも開幕12連敗と大きく躓いてしまう。しかし、復帰後は攻守に渡ってチームを支えた。

1982年より、ヤクルト監督時代に山崎の獲得を画策した広岡達朗監督に就任した。チームは初優勝を果たすも山崎は打撃不振であったが、広は「チームの貢献度は一番」と評価した。

巨人を倒し2年連続の日本一となった翌1983年は打撃が復調し、9月18日の対ロッテ戦(西武球場)で史上18人となる2000本安打を達成した。得点二塁打リーグ1位記録している。

1984年は自身の衰えとチーム若返り方針もあり、田淵幸一とともに現役を引退した。

1968年にはショートとして1試合10刺殺日本記録を達成、1イニング2本塁打、1イニング8塁打の日本記録1980年1983年の2回達成。

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通算成績

通算:20年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 2251 8887 7845 1099 2081 270 985 137 104 59 842 37 1267 149 .265 .339

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