岡村俊昭(おかむら としあき)とは、元プロ野球選手である。故人。
OB | |
---|---|
岡村俊昭 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 台湾・花蓮県 |
生年月日 | 1912年5月4日 |
没年月日 | 1996年1月25日 |
身長 体重 |
170cm 60kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投左打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1939年 |
引退 | 1949年 |
経歴 | |
選手歴 コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
1912年5月4日生まれ。日本統治下時代の台湾・花蓮県出身。少年時代には夜間学校に通いつつ、軟式野球をプレーしていたという。
平安中学校に進学。主に捕手としてプレーし、在学中9度甲子園大会に出場しており、1933年には夏の甲子園大会で準優勝を経験している。
高校卒業後、日本大学を経て、1939年、南海軍に入団。プロ入り後に外野手に転向している。
初年度の1939年、慣れない外野手守備に苦しむ場面もあったが、88試合に出場して、打率.243、38打点、20盗塁を記録。
以降は南海の外野のレギュラーとして、毎年80~100試合に出場。
プロ野球中断直前の1944年、打棒が開花し、リーグ最多の48安打を放ち、打率.369を記録して、首位打者のタイトルを獲得。日本プロ野球史上2人目の本塁打0での首位打者であり、1987年に正田耕三が記録するまで43年間現れなかった記録である。また、同年チームが記録した勝率は.324であり、勝率より高い打率という記録も残している。
1946年、南海に復帰。同年は77試合に出場して、打率.263、14盗塁を記録している。
引退後も南海に残り、コーチや二軍監督として鶴岡一人監督を支えた。
1960年限りでコーチを退任し、スカウトに転身。1972年までスカウトとして活動していた。
外野手転向直後、1試合で3失策を記録してしまい、外野手の1試合最多失策記録を作ってしまっている。
通算:10年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 651 | 2426 | 2043 | 3182 | 467 | 3 | 189 | 77 | 35 | 3 | 338 | 7 | 231 | --- | .229 | .340 |
掲示板
掲示板に書き込みがありません。
急上昇ワード改
最終更新:2024/06/06(木) 11:00
最終更新:2024/06/06(木) 11:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。