生きる?生きたい...とは、パンツレスリング外伝 オイル編
の6:43付近において、いかりやビオランテと野薔薇ひろしが交わした会話である。
パンツレスリング外伝 激闘編
において、ひろしに対して禁断の秘術「フェアリーテイクアウト」を解き放ったビオランテ。
しかし、ビオランテは、テイクアウト先で、グロッキーのひろしを更に痛めつけるのだった。
本来、相手への歪みねえ敬意があってしかるべきパンツレスリング。
その中で、敗者に鞭打つが如きビオランテの行為は、視聴者の誰もが「どういうことなの・・・」と疑問を抱かざるを得ない展開だった。
強さを求め過ぎたがゆえに、禁断の秘術を解き放ったがゆえに、ビオランテもまたダークサイドに堕ちてしまったのか――その疑問への答えは、戦いの最後にあった。
「生きるの?」
突然、ひろしに問いかけるビオランテ。
しかしひろしは、迷いがあるのか、はっきりと答えられない。
そんなひろしに、ビオランテは叫ぶ。
「はっきり言えや!」「(生きるのがイヤなら)別にいいし!」「生きる!?」「はっきりYes?!」「行けそうか!!?」
繰り返されるビオランテのその魂の問いかけに、ひろしは、最初は呟くように、しかし最後には、はっきりと答えるのだった。
「生きたい」と…
視聴者は疑問を抱くだろう。「そもそも、この戦いは何だったのか?」と。
漢同士の戦いに、そもそも理由など無いものだ。
しかし、敢えて言えば、この戦いは、ひろしを救うための、ビオランテの戦いだったと言える。
その鍵は、この名言の後の「いつものフランスな」「ビオのU☆S☆A」という、激闘編でも類例の見えるセリフにある。
レスリングの勝負そのものは、激闘編で既に決着が付いていたはずである。それではなぜビオランテは、禁断の奥義である「フェアリーテイクアウト」まで用いて戦いを長引かせようとしたのだろう?
それはビオランテが戦いの最中、ひろしの心の奥底にある深い深い孤独を感じ取ったからである。故郷を遠く離れ、新日暮里に暮らすひろしは、一種のホームシックにあったと見られる。自分を見失い、そして生きる意味をも見失っているひろし。その姿がパンツレスラーとしての在り方を見失っていた自分にオーバーラップした―――戦いが終わった後、ビオランテはいてもたってもいられなくなったのだろう。
「このまま戦いを終わらせてはいけない。更に限界に近づく必要がある」
彼はフェアリーテイクアウトの封印を解き、第二の戦いへと赴く。そしてひろしを極限状態まで追い込んだ瞬間、おそらくビオランテには「見えた」のだろう。無意識の扉が閉ざされる前に、間髪入れずにビオランテは問いを発する。
「生きるの?」
その問いかけに、ひろしの心の奥底に押し込められていた本当の願いが発露する。
「生きたい…生きたい…!」
それは悲痛な心の叫び。願いをはっきり口にしてきちんとそれを自覚することで、はじめて前に進むことができるとビオランテにはわかっていたのである。それは「生きる意味を…失う」から「アンインストール」への流れからも確認できることである。
戦いの中で、股間の薔薇が枯れるほどに全精気を使い切った疲労に、ひろしは心地よさすら感じたであろう。全力で戦うことで、かけがえのない自分自身がそこに存在していることを確かに自覚できる。デカルトの有名な言葉に「我思う、故に我在り」があるが、ここではまさに「我戦う、故に我在り」である。
そしてその直後の、ひろしに向けてのガッツポーズ。何も知らない者がこの戦いを見れば、ビオランテが敗者に対し自分の勝利を見せびらかしているだけの下品な行動にも見えるが、そうではない。「いつものフランスな」「For America!」という言葉は、「俺たちは故郷から遠く離れていても、胸の中にはいつも故郷がある。お前はいつも通りのフランス人じゃないか!そして俺は、アメリカ人だ。」という激励・確認の言葉、そしてガッツポーズは二人で壁を超えたことに対する「やったな」という気持ちを表すジェスチャーである。おそらくひろしはフランス人としてのアイデンティティをここで再確認し、自分を取り戻すことができたと思われる。結局のところ、修行編~オイル編はただ肉体の強さを競うレスリング勝負ではなく、二人で心の弱さを克服する営みであったと解釈することができよう。
「救いが無いなら、俺が救いになれば良い」とは木吉カズヤの名言だが、ビオランテもまた、救いの無い世界に、自分自身が救いになろうとする一人であるのかもしれない。
(補足)
それにしても、個人の深い孤独や懊悩というものは、伝えようとしても簡単に他人に伝えられるものではないはずだ。ひろしは一言も言葉にそれらを表していないにも関わらず、心の奥底に隠された感情は確かにビオランテに伝わり、彼の心を動かした。
この試合は、「パンツレスリング」とは一体何なのかをより深く理解するための重要な試合であったと言える。すなわち、「パンツ」は自分で意識的には取り去ることのできない「無意識の心の壁」の象徴なのではないだろうかということである。それを脱がされまいと必死になるのは「弱い自分の心を他人に見せたくない」とあがくことと同義であり、相手のそれを脱がそうと戦うことは「相手の心の弱さを発露・自覚させ、さらに高い次元へと上る」ためのステップだということである。修行編~オイル編については上述の通りだが、実際のところ木吉カズヤも兄貴との戦いの中で自らの弱さや慢心を自覚し、勝負には負けたものの「強くなりたい」と前に進む意志を獲得している。
裸一貫、ぶつかり合うことで言語化できない「心」をぶつけ合う。初投稿当初はパンツを脱がせたら勝負は終わりだと思われていたが、そうではないらしい。むしろ、全裸になる=無意識までさらし合う状態になってからの戦いが重要であると言っても過言ではないかもしれない。
初めは誰もその真意を理解できず、嘲笑の的であったパンツレスリング。本編=パズルのピースが揃うにつれて、徐々にその全貌が浮かび上がりつつある…。
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最終更新:2025/12/07(日) 01:00
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