菊池武包(きくち・たけかね ? ~ 1532)とは、肥後国の戦国大名である。菊池家25代当主。詫摩武安の子。
詫摩氏は詫磨、託麻、詫間とも表記され、3代当主・菊池経頼の子である詫磨経遠と詫磨経秀兄弟を祖とする。また、大友支族の詫摩氏もあるが、そちらは大友能直の子・詫摩能秀を祖としており、菊池氏系より後の時代の氏族である。
武包は12代当主・菊池武時の子・武澄の次男・詫摩武元の家系であり、武元の5世孫にあたる。
庶流の庶流にあたる人物だったため宗家の家督相続は無きに等しいと思われていた。
しかし、22代当主・菊池能運が戦傷が原因で死亡すると、菊池氏内の政情が不安定な為に能運の子を能運の弟・米良重房が日向国にて米良重為として育てることになり、嫡流は一応絶えることとなった。
能運の父の世代の兄弟たちは菊池姓としては絶えたとされ(菊池為邦の三男・米良武照は先んじて日向に定住)、能運の祖父の兄弟たちの子供たちが家督相続候補者となった。
宇土為光に関しては能運に敗れて親子三代斬首されて滅亡しており、菊池為安の孫・菊池政隆が23代当主となった。
しかしその彼も軽んじられ、国人衆や大友氏により死に追いやられた。残った家系は木野相直の子・木野親則であったが、彼はあろうことか自分の曾孫を家督継承者にしようと画策する。
肥後に勢力を広げようとした大友親治により阿蘇氏から阿蘇惟長を菊池氏の当主として菊池武経と名乗らせた。
ただし、あくまでも傀儡という立場を察していた武経からすれば、用無しになれば殺害されることは分かっていた事であったので、1511年に隈府城から出奔した。
そこで空白になった菊池氏の当主を隈部親氏(隈部親永の一族)・長野運貞・内空閑重載の重臣3名が武包を当主にまつりあげた。
しかし、庶流の庶流の人間であった上に、大友氏の意向が強かったためにこれに従った家臣団はほとんどいなかった。
親治の孫にあたる大友義鑑は家督を継いだ時は家臣団の不満と祖父と父がいまだ実権を握っており思い通りにいかなかった。
先だって義鑑の曽祖父にあたる親則の画策で義鑑と共に大友重治(義鑑の弟でのちの菊池義武)を次期菊池氏当主に迎えるべく手を打っていた。
もとより傀儡のような立場で従う家臣団も少なかったことから大友氏により隈府城から追放されてしまった。
大友側からすれば、武包が当主になっているのは義武が成人したら家督を譲るという中継ぎという立場という密約が元々決まっていたものであり、問題なく譲られましたよ、と解釈されている。
玉名郡に逃れて1523年に挙兵するも、義鑑と阿蘇惟豊の家臣・甲斐親宣の連合軍に攻められて有馬領である肥前国の高来へと逃れた。
1532年に有馬領にて病没した。これにて菊池氏は断絶した。大友氏と再び一戦に及んで戦死したともいう。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世紀 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | 30 | 知略 | 28 | 政治 | 20 | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - |
掲示板
掲示板に書き込みがありません。
急上昇ワード改
最終更新:2024/04/24(水) 07:00
最終更新:2024/04/24(水) 07:00
スマホで作られた新規記事
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。