酒井忠勝(1587~1662)とは、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将である。
徳川家康の家臣団ではかなり若い世代であり、もはや徳川家光・徳川家綱の近臣と言ってもいい人物。讃岐。
酒井忠勝は徳川氏の分家とされる酒井氏の一門であり、徳川四天王の酒井忠次はそこそこ遠い親戚であり、酒井忠世は従兄弟。大留守居などを務める酒井忠利の息子として生まれ、関ヶ原の戦いで徳川秀忠軍として初陣する。
慶長14年(1609年)には23歳で従五位下・讃岐守に任じられ、下総に三千石を与えられる。まもなく父の名代としても活動をはじめ、徳川家光の傅役に就任。この前後に彼と対立した青山忠俊が失脚している。
元和9年の徳川家光上洛後、酒井忠勝は3万石に加増され、老中に就く。家光から期待された酒井忠勝は李氏朝鮮からの使者の接待、将軍上洛の供奉、臨時の裁断などを任され、これをこなしていく。ついには寛永4年(1627年)の父の死後、川越城8万石の藩主となり、徳川家康の十三回忌や日光東照宮の拡張などの総指揮をとっている。
寛永9年(1632年)の徳川秀忠の死後、徳川家光の親政が開始されると、酒井忠勝は新参譜代の知恵伊豆・松平信綱と共に徳川家光政権を支えていった(これは酒井忠世の失脚や土井利勝の死といった事件によって運よくナンバーツーの座が転がり込んできたこともあるが…)。やがて従四位下・侍従に任じられ、領国も若狭国小浜に移封されている。
島原の乱を経、松平信綱や井伊直孝らとともに酒井忠勝も依然重んじられるが、徳川家光が亡くなってしまう。その中で、酒井忠勝は徳川家綱が将軍就任後の、不白入道事件、由井正雪の乱といった難局を乗り切り、浪人問題に着手していく。しかし衰弱して病がちとなり、明暦2年(1656年)についに大老を辞すことなる。江戸時代も新しいフェーズへ変わろうとしていた。
戦国時代に活動した徳川家光家臣団筆頭として、意外なことにほぼ毎回出ている。とはいえ完全な政治屋である。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | 54 | 智才 | 142 | 政才 | 168 | 魅力 | 74 | 野望 | 61 | ||||
将星録 | 戦闘 | 24 | 智謀 | 83 | 政治 | 90 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 37 | 戦闘 | 17 | 智謀 | 68 | 政治 | 89 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 21 | 智謀 | 58 | 政治 | 75 | 野望 | 43 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 21 | 知略 | 60 | 政治 | 77 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 21 | 知略 | 60 | 政治 | 77 | 教養 | 70 | ||||||
革新 | 統率 | 24 | 武勇 | 20 | 知略 | 70 | 政治 | 86 | ||||||
天道 | 統率 | 24 | 武勇 | 20 | 知略 | 70 | 政治 | 86 | ||||||
創造 | 統率 | 30 | 武勇 | 35 | 知略 | 68 | 政治 | 81 |
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最終更新:2025/03/28(金) 15:00
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