川越城 日本100名城 19 |
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別名 | 河越城、初雁城、霧隠城 |
城郭構造 | 平城 |
天守構造 | なし(画像は本丸御殿) |
築城主 | 太田道真、太田道灌ら |
築城年 | 1457年(長禄元年) |
廃城年 | 1869年(明治2年)頃 |
川越城とは、埼玉県川越市にある日本の城である。中世では河越城、近世以降は川越城と表記されることが多いが、ここでは便宜上「川越城」と表記を統一する。
室町時代中期から江戸時代末期まで使われた城。武蔵野台地の北端に位置しており、北と西は赤間川と入間川、東は伊佐沼、南は泥湿地に囲まれていたため、天然の要塞として機能していた。
天守はなかったとされており、代わりに三層の富士見櫓がその役割を果たしていた。その名のとおり、櫓からは富士山が見えたという。
明治時代になると多くの城郭建築が破却され、現在は本丸御殿や堀・土塁の一部しか遺されていない。ただ本丸御殿が現存しているのは日本国内でも2例(あと1例は高知城)しかなく、1967年(昭和42年)には埼玉県の指定文化財に登録されている。
2006年(平成18年)、日本城郭協会により「日本100名城」に指定された。
1457年(長禄元年)、扇谷上杉氏が古河公方(鎌倉公方)足利氏に対抗するため、太田道真とその子で築城の名手として名高い太田道灌らに命じて築城した。完成時にはすでに享徳の乱が勃発しており、そのまま扇谷上杉氏の本拠・軍事拠点として機能した。
しかし主君による太田道灌の暗殺(1486年)、長享の乱(1487~1505年)、永正の乱(1506~1515年)など相次ぐ内ゲバにより、山内上杉氏・扇谷上杉氏の両氏はみるみる衰退。そのころ相模国(現・神奈川県)で新興した北条氏にその隙を突かれ、1537年(天文6年)に落城。翌年の1538年(天文7年)と1541年(天文10年)に山内・扇谷上杉氏が連合して川越城に攻め寄せるも、いずれも退けている。
このころになると関東は北条一強となりつつあった。この状況にさすがに危機感を覚えたのか、それまで争っていた山内上杉氏・扇谷上杉氏・古河公方足利氏の3氏は和議を結び、対北条連合軍を結成。1545年(天文14年)には約8万もの大軍を率いて川越城を包囲する。対する北条氏が守る川越城はたったの3千、援軍に駆け付けた軍勢8千を加えてもその差は歴然だった。しかしこの連合軍の油断と慢心を突き、北条氏はこれもまた退けている。詳細は「河越夜戦」を参照のこと。
河越夜戦の結果、北条氏の関東支配はほぼ盤石なものになる。上杉謙信の関東侵攻により一時的に軍事拠点として機能するも、以後45年間川越城は北条氏の領国支配拠点としてその役割を果たした。1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐に伴い、ほどなく落城。関東の支配権が北条氏から徳川氏に移ると、川越城には徳川氏重臣の酒井重忠が入封する。
江戸時代になると、川越藩の藩庁として機能する。徳川将軍家の居城である江戸城の間近であったことから、藩主(城主)には堀田正盛や柳沢吉保などの老中・大老格が相次いで任じられた。その中でも松平信綱は、川越城の拡張・城下町の整備に取り組み、小江戸・川越の礎を築いた。また新河岸川の舟運や川越街道の陸運も整備し、江戸への物資の集散地として繁栄をもたらした。
「火事と喧嘩は江戸の花」とよく言われるとおり、江戸は火災が頻繁に発生した。小江戸・川越もそれに漏れず、火災によく苛まれた。1638年(寛永15年)の大火では城下の3分の1、1846年(弘化3年)の火災では本丸御殿が焼失している(2年後に再建されたものが現存する本丸御殿)。こうした火災への復興費用や幕末での沿岸警備担当費用は藩の財政を圧迫し、明治時代になる頃には修繕する費用を捻出できず、だいぶ老朽化が進んでいた。
1873年(明治6年)の廃城令を期に、川越城はその大部分が破却されるが、本丸御殿の広間・玄関は庁舎・公会所・タバコ工場・修練道場・校舎などと次々に転用された。1967年(昭和42年)、埼玉県指定文化財に登録されるにあたって大規模な修復工事が施され、1990年(平成2年)には家老詰所が移築復元された。
川越城に伝わる7つの不思議。そのうちの一部は、川越城の異名である「初雁城」「霧隠城」の由来になっている。
川越城 西大手門跡 |
太田道灌像 |
川越城 中ノ門跡 |
川越城 中ノ門堀 |
霧吹きの井戸 |
川越城 富士見櫓跡 |
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最終更新:2025/02/14(金) 05:00
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