鹿取義隆(かとり よしたか、1957年3月10日-)とは、高知県出身の元プロ野球選手(投手)、元野球指導者である。
OB | |
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鹿取義隆 | |
基本情報 | |
出身地 | 高知県香美市 |
生年月日 | 1957年3月10日 |
身長 体重 |
174cm 78kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1978年ドラフト外 |
引退 | 1997年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
高知工業高校では2年次に背番号10ながら甲子園に出場し、3回戦で敗れた。なお、岡林洋一は又従兄弟にあたる(母親同士が従兄弟。後に1992年日本シリーズで投げ合う)。
高校卒業後は明治大学に進学し、2年春からベンチ入り。4年春には右指中指のマメを潰しながら法政大学に勝利し、4年目にして初の優勝をもぎ取った。
江川事件の影響で就職しようとしていたが、ドラフト外で読売ジャイアンツに入団。入団早々江川卓の面倒を見ていた。
入団時から基本的に中継ぎ投手として活躍。ルイス・サンチェ、角三男らとともに強力な中継ぎ陣を構成し、彼らがいなくなった1987年からは抑えを務める。しかし、サンチェと角が抜けた巨人には鹿取の他に優秀な中継ぎ投手が少なかったこともあり、「ピッチャー鹿取」「鹿取られる」「王の采配は王(ワン)パターン」などという流行語が生まれるほど登板していた(1987年の63登板はリーグ最多、18セーブ、防御率1.90)。
負担が増したこともありこの後2年間は徐々に成績が低下。そんな中の迎えた1989年オフにトレードで西武ライオンズに移籍する。西武でも抑えとして起用され、1990年には24セーブで初の最優秀救援投手のタイトルを獲得し、優勝と日本一に貢献。この年の他西武時代の巨人時代を上回る活躍から、鹿取は「流行語を作った選手」であると同時に「西武黄金時代を代表する選手」として語られることも多い。巨人と異なり西武は比較的中継ぎが整備されていたこともあってか、巨人ほどの登板数になることは無かった。1995年には抑えを潮崎哲也に譲る形で中継ぎに再転向。1997年、膝の故障などもあり現役を引退。
1998年からコーチとして巨人に復帰。2000年オフに一度巨人を退団したが、原辰徳の要請で2002年に復帰。2003年に投手陣が崩壊し二度目の退団。2006年には王貞治の要請でワールドベースボールクラシックの投手コーチを務めた。その後は野球評論家、解説者の傍ら、ユース層の日本代表のコーチを務めている。2017年には相次ぐ補強失敗に耐えかねた巨人からGMとして招聘、翌18年まで務めた。
一度西武から1億円を提示されたことがあったが、「1億円は主役の金額、9000万円でいいです」と固辞したこともある。
通算:19年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 | WHIP |
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NPB | 755 | 1 | 0 | 91 | 46 | 131 | 0 | .664 | 1306.1 | 354 | 846 | 429 | 401 | 2.76 | 1.12 |
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最終更新:2024/11/15(金) 00:00
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