博多とは、800年ごろから存在する港湾都市、現在の福岡市博多区北西部の事あるいは伝統の物に付く固有名詞(博多どんたくなど)である。ちなみに最も古典的な博多のエリアは現在の地名に直すと、大博町、神屋町、対馬小路、須崎町、古門戸町、奈良屋町、下呉服町、中呉服町、上呉服町、綱場町、下川端町、上川端町、店屋町、御供所町、冷泉町、祇園町のエリアとなり、ベイサイド、博多駅、中洲、住吉、千代等はエリア外となる。実際現在の博多小の校区より狭い地域である。
古く「那津(なのつ)」「荒津(あらつ)」「灘津(なだつ)」「冷泉津」「筑紫大津」と呼ばれていた博多湾は797年(延暦16年)の続日本紀』において「博多大津(博多津)」と記されているのが見出される。「ハカタ」の語源は、「土地博(ひろ)く人・物産多し」という言葉から「博多」、大鳥が羽を広げたような地形から「羽形」、海外へ出る船の停泊する潟から「泊潟」、射た鶴の羽が落ちたとして「羽片」(鶴の墓は太宰府の榎社にある)、切り倒された大樹の葉が舞い落ちたので「葉形」などの説がある。8世紀の海外の文献にも「覇家台」「八角島」「花旭塔」との記述があり、どれも「ハカタ」に近い音を発する。この当時の「博多」というのは現在の博多湾に面する一帯を指すものであった。
大宰府の外港であった博多津には鴻臚館が存在し、鴻臚館貿易が行われるとともに、遣唐使が経由地として訪れていた。757年(天平宝字元年)に櫛田神社が創建。806年(大同元年)に唐より帰朝した空海は博多に東長寺を建立している。
藤原純友の乱に際しては、朝廷追捕使小野好古と藤原純友との争いで博多の町が焼失する。この争いの前、好古は戦勝祈願にと櫛田神社に素盞鳴大神を勧請したとされる。
と言う風に始まり、後に日宋貿易や当時の琉球(今の沖縄県)を経由して東南アジアとも貿易を行い、大阪府の堺と並んで商人の町として発展した。しかし元寇とか戦国時代には数回焼き討ちに遭い数え切れぬほど焼失しまくっていた。因みにイエスズ会(キリストカトリック教の修道会の事、耶蘇教とも)との交流もあり、博多のことは「Facata」「Focata」「Facatta」と記されていた(Wikipediaより)
その後豊臣秀吉が実権を握って要塞都市にしようとしたり、最終的には江戸時代の初頭に黒田氏の黒田長政が関が原の戦いの戦功により福岡藩(所謂黒田藩)を設立して福岡城を建造し城下町として栄えた。
だがその影響で城下町「福岡」と港湾都市「博多」とで二極都市が出来てしまうが、明治まで福博と言う名の地名で定着していた・・・のだが、1889年に市町村制度が施行される事となり、従来の福岡区から市へと昇格させる際に福岡市派と博多市派とで闇討ちしあうなど熾烈な論争となり、結局議会で福岡派の議長の決定により1票差で福岡市に決定した。
結局、1972年4月1日に福岡市が政令指定都市に移行する際に博多区が設置されるまで、鉄道駅等一部を除き公式的には博多の文字は消える事となった。
市の名前が福岡市になった後、のちに国鉄(現JR九州)となる(初代)九州鉄道が路線を開設したが、福岡市の中心となる駅がちょうど博多の地域にあったため博多駅となり、同名の九州鉄道(初代とはベツモノ、後に福博電車等と合併した後、現在の西日本鉄道)は1924年に福岡駅(現西鉄福岡(天神)駅)を開設、双方が福岡市のターミナル駅として発展していく事となる。
だがここでややこしい事が発生する。先述の初代九州鉄道が日本国有鉄道となった為、実質博多駅が福岡県の中心駅となった。
元から博多の地名は「博多どんたく」や「博多山笠」、「博多人形」に「博多ラーメン」等の固有名詞として使われており、全国的にも有名で、それに加えて山陽新幹線が博多駅まで全通した1975年以降は本州でも「博多」の名を見る機会が増えたため、県外の人からは「博多市」、甚だしいと「博多県」が実在する、または過去に実在したと言う誤解が生まれてしまった。
実際に博多の名前が市区町村名に使用されているのは「博多区」のみである。ただし博多の名称を冠した施設は数多くある為、混同される要因ともなっている。同じ例は名古屋県、横浜県などと言った例でも見られる。
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最終更新:2024/12/06(金) 11:00
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