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1 ななしのよっしん
2011/03/26(土) 16:48:41 ID: 8PV+x6Y51c
2 ななしのよっしん
2011/06/03(金) 09:06:51 ID: w2sjgONj6Y
3 ななしのよっしん
2012/08/15(水) 09:59:40 ID: PWX1+emFPy
面白くてわかりやすいなww。
俺もこのくらいのノリで書ければね、と思うわ。
4 ななしのよっしん
2012/11/08(木) 14:23:04 ID: 9mgEqVtv1u
まさか記事ができてるとはw
大連合を組んで半年もグダグダやってたのか
そりゃやられるわな
5 ななしのよっしん
2015/03/24(火) 20:41:25 ID: 7ode9npFgx
>>2
ちなみに佐竹氏は、佐竹義昭の五代前に、山内上杉氏から
婿養子が入っており、以後男系はずっと上杉系統だったりします。
まぁ…落ちぶれた実家より新羅三郎義光以来の源氏の名門を取るよね。
6 ななしのよっしん
2015/09/21(月) 22:03:33 ID: M+Jyeepw4f
ウィキペの長ったらしい記事を読むのが面倒でこの記事読んだけど、短くまとまってていいね
7 ななしのよっしん
2017/10/27(金) 00:22:01 ID: bG0GfFdaSK
山内上杉家・扇谷上杉家・古河公方という当時の関東における三大勢力がタッグを組んで、新興勢力である北条氏に挑んだが敗れたという戦い。そこから勝者の北条氏はさらに飛躍し、敗者の三勢力は衰退していくという流れは桶狭間の戦いにおける織田と今川みたいで実に興味深いんだよね
しかしほんと上杉は西の細川氏と同様、東における室町時代のトラブルメーカーやな。ちょくちょく争いの原因作ってるし…
8 ななしのよっしん
2019/03/03(日) 23:58:22 ID: ALNwC6obSH
上杉朝定が陣中で病死して軍の士気を保てなくなり撤退したという説があるけど実際はどうなんだろうね
9 ななしのよっしん
2020/07/03(金) 02:15:32 ID: xPegKm9/9D
大規模な戦いがあったとしたらこの戦いに関する北条側の感状がひとつも発見されてないことがおかしいんだよね
河越夜戦より小規模とされる1541年の河越城をめぐる戦いの時の感状6枚は見つかってるのに
10 ななしのよっしん
2020/11/19(木) 11:29:13 ID: Zv9rYB4/nl
甲陽軍鑑と関東古戦録がタッグを組むとこういう嘘が出来上がる、という典型例。
11 ななしのよっしん
2021/01/20(水) 04:07:16 ID: iGN7e/MbrU
上杉朝定って21歳で死んだらしいし子供いなくても全然不思議じゃないよな
豊臣秀頼が仮に1614年に病死したら大坂の陣なんて絶対起こってないだろうし
勢力として凋落して当然だろうから、そちらの可能性の方が高くて当然
大体8万の軍勢を半年以上も滞在させていたって方が無理ある
のちの織田政権、豊臣政権、徳川政権レベルですらこれかなりキツイだろ(主に兵站が)
実際には8万ではなく3万だったって論調が強いけど、これすら怪しいって見方が主流らしい
http://y
河越夜戦に関する虚実について
12 ななしのよっしん
2021/01/20(水) 17:05:16 ID: xPegKm9/9D
13 ななしのよっしん
2021/05/11(火) 11:20:56 ID: WKZCBW7D/x
・よせ集めの連合軍
・圧倒的戦力差による慢心
・やる気のない(フリをする)敵
もうフラグが立ちすぎてて草
14 ななしのよっしん
2021/06/20(日) 15:53:23 ID: Fsy2fhgrzc
>>9 それ知ってビックリしたなぁ
北条家クラスなら感状なりがあってもおかしくないのにないのはな
当主が戦死というならマジで大規模な戦いだろうに(傷が元で陣没でも違和感はないけども)
>>13 典型的な軍記物の描写…なのかもしれない
15 ななしのよっしん
2021/07/23(金) 18:54:30 ID: zfQ7KNfcJi
厳島の戦いも毛利元就による感状がないらしく、
三大奇襲戦はすべて軍記物でもられている可能性がかなりあるのが今の歴史研究成果でしょうかなあ…
(もう一つは桶狭間の戦いだから…)
16 ななしのよっしん
2022/06/04(土) 22:15:51 ID: WKZCBW7D/x
ただ後世の人間から見ればターニングポイントだった戦いも、当時の人は違う評価だったってのはあるからなぁ
軍記物が信頼できるソースではないのはそうだけど、残ってる感状の枚数だけ論じちゃうのもそれはそれで強引かと
17 ななしのよっしん
2022/06/13(月) 16:07:56 ID: EiTq3ckK3Y
>>16
たぶんこの戦はフィクションに近いのだろうし、確かに軍記物のソースとしての信頼性はとても怪しい(記された当時の文化などを知るのに役立つだろうが)と思うけど、
「何か大きな出来事があったなら、感状や日記、手紙が必ず発見できる」という信念があるとすれば、それはかなり問題があると思う。まして、「より多く信頼性の高い史的証拠の存在が、より重要な出来事の発生を強く示唆する」という判断はより問題があるだろう。
仮にそれが一般的な日本史学的態度だとすると、史学が特定の出来事を強調する方法にはいちおうの懐疑を持つべきだと思う
個人的には、むしろ、軍事史の世界では、西洋中世軍事史学で言われているように、ブルート・ファクト(不変の自然法則と物質的証拠からの考察)を活用すべきだと思う(まあ、その種の方法では河越夜戦の存否自体は決して明らかにならないけどねw)
18 ななしのよっしん
2022/07/19(火) 13:02:27 ID: 2x7+HmnN0U
川越夜戦について北条の遺臣三浦浄心の書いた「北条五代記」に「四月二十日午の刻に至って合戦」とあり、この戦は夜戦でなかったらしく、「新編武蔵風土記」には「川越夜戦の年月区々の説あり、或いは天文七年七月十五日、或いは十一年七月十五日、或いは二十年とも云う」と、十五年四月は全く出てこない。
「和田系譜」は「和田兵衛大夫信輝、天文七年七月二十日川越討死」と七年七月に川越に激戦のあったことを裏づけている。
川越には数回の合戦が数年にわたって繰り返され、上杉方は敗戦を重ねて、次第に衰退していったのだろう。
19 ななしのよっしん
2022/07/19(火) 13:06:49 ID: 2x7+HmnN0U
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