物吉貞宗(刀剣乱舞)とは、ブラウザゲーム「刀剣乱舞」に登場するキャラクターである。
よーし、概要も、幸運を運んできちゃいますよ!
相州貞宗作の脇差。
徳川家康の愛刀で、これを帯びて出陣すると必ず勝利を得たことから
「物吉」と名づけられたと伝わる。
好きなことはお手伝い。戦慣れした幸運の王子。
(公式Twitterの紹介より)
2015年10月29日から開催されたイベント「秘宝の里」で先行実装された。
現在は7-1「延享の記憶:江戸・新橋」ステージでのボスドロップで稀に入手可能となっている。鍛刀による入手は不可。
ふんわり淡く柔らかなミルクティ色の髪と瞳が特徴的な、細身の美少年。よく見ると、前髪の一房だけが色が濃い。
戦装束は、刀派共通の白、及び金色を基調とした気品ある洋装。内番衣装も刀派共通のジャージ姿で、手には馬の世話をする道具を持っている。
性格は明るくはつらつとして素直、かつ無邪気。審神者やみんなのお手伝いを好む献身的な少年。
「幸運の運び手」を自負しており、笑顔が一番だと言って主たる審神者を励ますなど、ムードメーカーとしての台詞が多い。
一方で戦場に出すと、「戦慣れしている」という設定もあってか、「いきましょう、勝利を掴む為に!」と宣言して敵陣に突っ込むなど、手慣れた指揮や負けん気の強さを見せる。
徳川家ゆかりの後藤藤四郎(刀剣乱舞)と共に、4-2「戦国の記憶:三方ヶ原」に出陣すると回想が発生。
「人間って勝手だよな」と言う後藤に対して、「それでいいんですよ。勝手じゃないと、人間はすぐに死にます」と告げ、自身の名にまつわる幸運と、人の有り様についての達観した一面が窺える。
ちなみに三方ヶ原の戦いといえば、徳川家康が武田信玄と激突し、人生最大の危機とも言われる敗走をしたことでも有名である。討死寸前まで追い詰められ、大事な家臣達を身代わりにして、命からがら逃げ帰った家康の出来事も踏まえたうえだとすると、物吉の言葉も深いものがある。
また、同じく徳川家ゆかりのソハヤノツルキ(刀剣乱舞)と共に出陣すると回想が発生。
家康を狸爺呼ばわりするソハヤに「やめましょうよー」とたしなめつつも、付き合いが長いが故のほんわかしたやりとりを見せた。
ステータスのうち、必殺が全刀剣中1位の50である。
必殺は真剣必殺の発動率の他に二刀開眼の確率にも関わるので、脇差の特性である「会心の一撃」の発生率上昇効果も相まって、サポートを期待できる存在である。さすがは幸運の運び手。
また、統率が低い傾向のある脇差のなかでは、特で最大60もあり、実はレア2打刀より堅い。反面、打撃と隠蔽は脇差でワーストとなっている。
極実装
2017年8月29日、極が実装。
脇差極の特徴として「一定の確率で敵の攻撃を防御する」仕様が追加され、ステータスは全体的に上昇。特に偵察・隠蔽のステータスが大きく上昇している。
全体的に豪奢な装飾が増えているが、これは「銀溜白糸威具足」がモデルではないかと推察される。
これは尾張徳川家初代・徳川義直所用の甲冑で、旅行の際にも必ず携行するほどお気に入りだったと伝えられている。
鍬形兜の前立を彷彿とさせる頭飾りをつけており、ちんまりとしたサイズもあいまって王冠にも見え、王子様感が大いに増している。
修行先はその徳川義直のいる尾張で、意外にもすんなり受け入れられた。どうやら「新陰流を学びに来たと勘違いされている」らしいが、これは「義直が兵法師範・柳生利厳に師事し、新陰流第4世宗家となった」という話に基づいている。
戦の世は遥か遠くとなったが、三代将軍・徳川家光が病に倒れた際、見舞として義直が出立したのを謀反と疑われる騒動に巻き込まれる。史実の上では寛永11年(1634年)の出来事で、将軍に万が一の事態があった場合に身辺を警護する為、大軍を率いての行動に幕閣ばかりか当の家光も慌てたという記録が残っている。何故そのようなことをしたのか疑問に思う物吉に対して義直は「義のためにそうする必要があったからやった、是非を問うまでもない」と回答。
他に誰かにどう思われようとも自分の信念を貫く元の主の姿に物吉は「強さ」を見出し、自らもそうありたいと決意し、本丸に帰還を果たした。
修行前とさほど性格は変わっていない。ただ、「幸運はボクの手の中に!」という台詞からも解るように、自らの謂れである幸運を自分の意志で呼び寄せようとする姿勢が見られる。
笑顔が一番!史実も、笑いましょ!
日本刀中興の祖である正宗の子・相州貞宗の作とされる。
在銘刀は非常に少ないものの、五箇伝と呼ばれる刀工の流れの一つ・相州伝の代表的な刀工であり、父と並び高い評価を受けてきた。
徳川家康の愛刀。名の由来は、これを身に帯びて出陣すれば必ず勝利したという縁起の良さから。
差表・裏ともに蓮華や梵字の彫刻を施された、美しい刀身である。
また目貫(柄を刀身に固着させる釘・金具)は、室町時代の金工家・後藤祐乗の作。金具に施された竜の彫刻を見つめていると、竜が瞬きするように見えた事から、家康が「瞬きの竜」と名づけたと伝えられている。
なお、家康がいつ物吉を入手したかについては諸説ある。
関ヶ原の戦いの後、慶長6(1601)年10月、豊臣秀頼から家康に貞宗の脇差が贈られている(ちなみにこれに先駆けて同年3月、宗三左文字が同じく秀頼から家康に渡っている)。
この記録に登場する貞宗の脇差が物吉だとすると、回想にある三方ヶ原の戦いの時には未入手だった事になるが、別の資料によると三河以来の所有であったという解説もある。
その後、家康の形見分けとして尾張徳川家に伝わった。
当初、物吉は形見分けの対象にはなっておらず、初代当主・徳川義直(家康の九男)が物吉を相続する予定ではなかった。
しかし義直の生母・お亀の方(相応院)が強く勧めると同時に手を回し(一説には盗み出したとも)物吉を所有する事になったという。以後は同家にて大切に保管され、常に歴代当主の傍らにあった。
ちなみに通常は脇差として腰に差すが、狩衣以上の礼服を着用する際には帯刀が許されない為、短刀として懐に帯びる事が出来るよう、鍔のない短刀拵えになっていた。
幕末まで同家に伝わり、昭和6(1931)年、第19代当主・徳川義親によって設立された財団法人「徳川黎明会」所蔵となった。
その後、昭和28(1953)年に重要文化財指定を受け、現在は同法人の運営する徳川美術館(愛知県)にて収蔵・展示されている。
展示の機会は多く、2016年には徳川美術館にて展示が2回行われた。
2016年4月19日から5月17日にかけ、「徳川美術館の名刀」において、同美術館が所蔵する後藤藤四郎・鯰尾藤四郎・山姥切(山姥切国広の本科)と共に展示。
2016年7月14日から8月9日にかけ、夏季特別展「信長・秀吉・家康 -それぞれの天下取り-」において、鯰尾藤四郎と共に展示。
また同年開催されたコミックマーケット91に、徳川美術館が企業として出展。刀剣のポスターやグッズを販売、話題を呼んだ。
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関連項目は、ボクがお守り致します!
- 刀剣乱舞
- 後藤藤四郎(刀剣乱舞) - かつての主つながり・回想発生
- ソハヤノツルキ(刀剣乱舞) - かつての主つながり・回想が発生
- 鶴丸国永(刀剣乱舞) - イラストレーターが同じ
- 貞宗派
- 太鼓鐘貞宗(刀剣乱舞) - 刀工が同じ
- 亀甲貞宗(刀剣乱舞) - 刀工が同じ
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