佐竹義昭(さたけ よしあき) (享禄四年~永禄八年/1531~1565)
戦国時代の常陸の戦国武将。佐竹氏の十七代目当主。嫡男は『坂東太郎』の異名を持つ佐竹義重。
概要
佐竹義篤の長男として、享禄四年八月二十五日(1531年10月5日)に生まれる。父・義篤は、弟の佐竹義元の反乱に悩まされていた。しかし、天文九年(1540)には弟を討ち乱を収束させ、常陸北部を統一する。だが、天文十四年(1545)に義篤は三十八歳で原因不明(恐らくは病死か)の死を遂げ、義昭は十五歳で家督を継ぐこととなる。
分家の佐竹三家(北家・東家・南家)の補佐を受けながら、義昭は常陸の統一に取り掛かる。
かつては盟約を結んでいた江戸氏とも対立し、佐竹氏は江戸氏を次第に圧迫していく。天文二十年(1551)、順調に勢力を拡大しつつある義昭のもとに、河越夜戦で大敗を喫して以降、北条家に圧されていた上杉憲政から使いがやってくる。関東管領である自分を保護して欲しい、との申し出である。その暁には、上杉の名跡&関東管領の職を譲る、と言うおまけつきで。
だが、元々佐竹家は清和源氏の血筋であり、新羅三郎義光の流れを組む名家。名門の誇りを持つ義昭はこれを拒否した。
弘治三年(1557)、宇都宮家の内部で内訌が発生した時は、宇都宮広綱を支援し、広綱を宇都宮城に帰還させている。永禄三年(1560)には結城晴朝を攻めて勝利している。永禄五年(1562)には上杉輝虎(後の謙信)と結んで小山城を攻めた。同年、義昭は嫡男の義重に家督を譲り隠居した。が、実権は握り続けた。
永禄六年(1563)には那須氏を攻めて勝利しており、永禄七年(1564)、北条氏・結城氏と手を結んだ小田氏治が攻撃してくる。義昭はこれに対して上杉氏・宇都宮氏と結んで小田城を奪い、側室の実家の大掾氏も傘下に収める。
これから常陸統一も佳境に入ろうという永禄八年(1565)、11月3日に急死した。享年・三十五歳。その跡は、息子の義重が継いだが、義昭の死によって佐竹氏の常陸統一は後れを取ることとなる。
義昭は生来、病弱であったとも言われ、急死の原因も病死であろうと推測されている。
補足
『信長の野望』シリーズにおける、佐竹義昭の能力値の一覧。子の義重には劣るものの強い部類に入る。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 58 | 政治 | 63 | 魅力 | 70 | 野望 | 62 | 教養 | 61 | ||||
覇王伝 | 采配 | 80 | 戦闘 | 59 | 智謀 | 41 | 政治 | 66 | 野望 | 52 | ||||
天翔記 | 戦才 | 136(B) | 智才 | 86(B) | 政才 | 142(A) | 魅力 | 81 | 野望 | 68 | ||||
将星録 | 戦闘 | 64 | 智謀 | 69 | 政治 | 77 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 73 | 戦闘 | 51 | 智謀 | 64 | 政治 | 74 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 66 | 智謀 | 56 | 政治 | 75 | 野望 | 85 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 69 | 知略 | 66 | 政治 | 78 | 野心 | 83 | ||||||
天下創世 | 統率 | 69 | 知略 | 66 | 政治 | 78 | 教養 | 60 | ||||||
革新 | 統率 | 77 | 武勇 | 59 | 知略 | 74 | 政治 | 87 | ||||||
天道 | 統率 | 77 | 武勇 | 59 | 知略 | 74 | 政治 | 87 | ||||||
創造 | 統率 | 78 | 武勇 | 60 | 知略 | 73 | 政治 | 82 |
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関連項目
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