太田黒伴雄とは幕末、明治時代初期の神官。神風連の乱の首領として知られる。
概要
天保5年(1834年)、肥後熊本藩士・飯田熊助の三男として生まれる。諱は安国。
父の死後、大野家の養子となり大野鉄兵衛と称した。その後江戸に赴き、朱子学・陽明学などを学んだが、肥後に戻ると国学者・林桜園に師事し、国学・神道を学び、宮部鼎蔵、河上彦斎、轟武兵衛らと共に尊王攘夷運動に身を置く。佐幕派の多い肥後藩内でのこともあり、家族に迷惑をかけないよう自らを廃嫡とし、家を義弟に継がせた。
元治元年(1864年)、縁あって新開大神宮祠官である太田黒家の後継を請われて養子となり、太田黒伴雄と名乗る。
明治2年(1869年)、林桜園に随従して東京に赴く。帰藩後、欧化政策に反対し、敬神党(神風連)を結成し、その首領となる。
明治9年(1876年)、相次いで公布された廃刀令や断髪令に反発し、10月24日深夜、3部隊170人余りで決起。熊本鎮台砲兵営を襲撃、焼き討ちにしたが、戦闘で重傷を負い、法華坂で自刃。享年43。
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