宮部鼎蔵単語

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宮部鼎蔵とは幕末武士であり、肥後熊本における尊王攘夷の中心人物である。

概要

文政3年(1820年)、肥後医師系に生まれ、山鹿流軍学師範の叔父の養子となる。

嘉永3年(1850年)、の山鹿流軍学師範に登用される。 同年、九州に遊学していた吉田松陰と知り合う。同じ山鹿流の兵学者である吉田と意気投合し、二の友となる。

吉田松陰との交流

翌年、江戸吉田と再会した折に、外東北地方藉を行ったという噂を聞き、吉田と共に北辺警護の視察を兼ねて東北を歴訪する計画を立て実行に移す。

嘉永四年七月十六日
東北遊願」
拙者儀、軍学の稽古のため差し登らせおりところ、水戸仙台米沢会津等、文武盛んのよし承るに及び
何卒
十二月十四日
肥人、宮部鼎蔵、東北遊ここに企て、余、喜びてこれを諾す。安芸五蔵またまさに常に至らんとす。
ついに同行を相約す。

(吉田松陰東北遊日記』)

この時吉田は、から関所の通行手形が届くのが遅すぎ、宮部約束した日時に間に合わなくなるという理由で脱している。

江戸を発った後、水戸以北の諸を歴訪し、会沢正志斎など諸の有志と交流、尊王攘夷論に傾倒していく。

4ヶほどの東北遊学を終えて江戸に戻ると、脱の罪で吉田長州に送還され、宮部熊本に帰長州に戻った吉田は士籍剥奪・世録収の罪を受けるが、の計らいにより10年の遊学期間を与えられ、事実上罪を許されている。

嘉永7年(1854年)、先年に続き来日した米国艦隊に侵入して米国に密航する計画を吉田から聞いた宮部は当初危険すぎると反対したが、吉田の決意が固いのを知ると、自らの太刀と和歌を贈って励した。

(すめかみ)の を畏(かしこ)みて 思ひつつ行け 思ひつつ行け

よく知られているようにこの渡航計画は結果的に失敗に終わり、吉田宮部共に幕府にを付けられ尋問を受けている。

翌安政2年(1855年)、門横井小楠の一との間で起きた乱闘騒ぎの責任を取る形で軍学師範を辞職、郷里にて閑居の身となる。その後はしばらくの間門の育成に努める。

おこの時期、九州に遊学中だった久坂玄瑞に対して吉田と会うよう勧めている。

尊攘派の台頭

文久元年(1861年)、前年に大老・井伊直弼が暗殺され、全各地でかに尊攘の勢いが増すと肥後勤王党に参加、肥後における尊攘の中心人物となる。

翌文久2年(1862年)、九州各地で遊説をしていた清河八郎宮部を訪れ、事について談じ合う。清河に活動の活発化を促された宮部京都に赴き、長州久坂玄瑞桂小五郎らと協して朝廷への工作活動を始める。

文久3年(1863年)には、諸から募った有志3000人から成る御兵の総監や、学習院への出仕等重職を任じられる。

池田屋事件

文久3年8月18日1863年9月30日)、薩摩会津を初めとした佐幕諸によって御所が封鎖され、朝廷を席巻していた長州以下尊攘が一斉に締め出される事件が起きた。(八月十八日の政変)

都落ちした七卿と共に一旦長州に退いた宮部は、京都に戻ると長州間者の古高俊太郎の協のもと潜活動を開始する。

元治元年6月5日1864年7月8日)、京都池田屋にて尊攘志士らとの会合中に新撰組の襲撃に遭う。屋内で応戦するが衆寡敵せず、逃げ切れないと覚悟して自した。享年45。

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宮部鼎蔵

1 ななしのよっしん
2010/06/19(土) 01:00:01 ID: ZNUYw6eCTJ
記事、作成乙
郷里が輩出した偉人だから嬉しいけど、何でこんなに充実してるのか…
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2 ななしのよっしん
2010/12/30(木) 13:38:04 ID: 9K6F8A3vcd
なんかすごい詳しく書いてあっておなかいっぱいです
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3 ななしのよっしん
2015/01/07(水) 23:30:22 ID: udz8aCeNIb
ていっ
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4 ななしのよっしん
2016/03/10(木) 00:59:22 ID: o5iyTiVKyJ
大河の新選組!で、近藤土方に「幕府への忠義」も「時代の流れに抗うこと」も為に終わることを予言して死んでいったことがすごいに残ってる
池田屋の時点ではそれこそ負け惜しみに過ぎない言葉ってのも踏まえて
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