斯波義敏(1435?~1508)とは、室町時代に活躍した武将である。
概要
15世紀前半、斯波氏は当主が若くして亡くなることが続き、1452年についに嫡流である武衛家が斯波義健の死で断絶してしまったのである。その結果傍流の大野斯波氏から新たに斯波義敏が迎えられたのである。
しかし、武衛家の被官である甲斐常治らは、もともと加賀奪還に固執する大野斯波氏とその被官である二宮氏らに批判的であった。そのため彼らは斯波義敏と対立。両者は、絶賛享徳の乱勃発中の関東への軍事力として期待されていたにもかかわらず、ついに越前で長禄二年の合戦に至る。足利義政は当初は義敏に譲歩していたが、堀越公方足利政知の敗戦を聞くと、甲斐常治側についていった。
斯波義敏はついに敗北し1459年に大内教弘のもとへ没落。代わって義敏の息子・斯波義良(斯波義寛)が継いだ。しかし、朝倉孝景、甲斐敏光らの運動の結果、御一家の渋川義鏡の息子である斯波義廉がが武衛家を継ぐこととなった。これは軍事動員力のあまりない堀越公方府に、斯波氏を取り込ませることで支配強化を目指したものとされる。
しかし関東武士との対立で渋川義鏡は失脚。1463年に畠山義就とともに斯波義敏の赦免が行われている。さらに、これまでの斯波氏の役割から大崎教兼をはじめとする奥州諸将への影響力を持つ、斯波義敏の復権が、足利義政と伊勢貞親らによって企てられる。そして1466年8月、斯波義敏は三ヶ国守護に復帰する。しかし伊勢貞親ら、義政側近を排除する文正の政変が起き、わずか12日で義敏は没落してしまった。
その後応仁の乱では、斯波義廉が積極的な理由で山名派についたことから、文正の政変に細川勝元も関わっていたにもかかわらず、東軍として越前に進出していく。その後西軍の斯波義廉の派遣した朝倉孝景と合戦に及ぶが、孝景の寝返りにより、越前支配の実権を失った。
応仁の乱終結後、斯波義敏・斯波義良親子は尾張に移り、1485年に義俊は足利義政とともに出家する。武衛家の家督自体は継承することに成功したが、斯波氏の分国はすべて混乱していき、以降の斯波氏はその再建に尽力することとなる。
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