柳沢敦(やなぎさわ あつし、1977年5月27日 - )とは、富山県出身の元サッカー選手、サッカー指導者である。
元サッカー日本代表。現・鹿島アントラーズトップチームコーチ。
現役時代のポジションはFW。177cm75kg。利き足は右足。
概要
ボールが無いところでの動きやスペースの使い方に優れたフォワード。1990〜2000年代の日本サッカー界を代表する選手の1人で、JリーグではJ1通算ゴールランキング10位となる108得点(2016年12月21日現在)、サッカー日本代表では歴代得点ランキング13位となる17得点(2016年12月21日現在)を記録している。
富山第一高校の選手として注目を集め、1996年鹿島アントラーズでプロデビュー。翌1997年にはJリーグ新人王を獲得。2003年にサンプドリアに移籍、2004年にメッシーナに移籍とセリエAのクラブチームに移籍するもあまり活躍できなかった。2006年に鹿島に復帰、2008年には京都サンガF.C.へ移籍。主力として活躍するも、2010年シーズンの京都のJ2降格を機に退団。同年、ベガルタ仙台へ移籍。
日本代表としては1998年2月にデビューし、FIFAワールドカップには2002年と2006年の2度出場。消極的なプレーが何かと批判され、2006 FIFAワールドカップ第2戦クロアチア戦で決定的なシュートでミスをし、試合後の「急にボールが来たので」という迷言から「QBK」という言葉が生まれている。しかし、技巧派FWとしてのオールラウンドな能力は非常に高く、フィリップ・トルシエ、ジーコといった外国人の代表監督からもその能力を高く評価されていた。
2014年シーズン終了をもって現役を引退する。引退後、2015年より鹿島アントラーズのコーチに就任。不祥事によって一時退任するが、その後復帰している。
経歴
生い立ち
1977年5月27日、富山県射水市出身。幼い頃に母親を亡くしており、姉と共に父親が男手一つで育てている。当時、父親は運送会社で働いていたが、後にラーメン店を開業。小学1年生のときに地元の小杉SSCに入団しサッカーをはじめる。中学生になるとFCひがしジュニアユースに所属。この頃、U-15日本代表に選出されるなど注目を集めるようになる。
1993年に富山第一高校に進学し、サッカー部に所属。1年生の頃から将来の大器としてJリーグ関係者からは注目されており、高校時代は3年連続で国体および高校総体への出場を経験。1年後輩には後にカターレ富山の監督になる小田切道治がいた。10番を背負ってキャプテンを務めた第74回全国高校選手権では、すでにアンダー世代の代表に選出され、エースストライカーとして活躍していたことから超高校級のストライカーの触れ込みで大会の目玉として注目をされる。初戦となった2回戦の守山北戦では2アシストの活躍でチームを勝利に導く。3回戦の静岡学園戦ではGK南雄太から待望の選手権初ゴールを決めるが、チームはPK戦の末に敗れている。早くから卒業後のプロ入りが有望視され、当時Jリーグ13クラブからオファーを受ける争奪戦が繰り広げられたが、最終的に自分の好きなチームであり、ジーコの存在も決め手となり、鹿島アントラーズ入団を決意する。
鹿島アントラーズ
1996年、Jリーグの鹿島アントラーズに正式に入団。当時、大物ルーキーとしてメディアやファンからの関心度が高かったものの、ジョアン・カルロス監督は急がず、着実に育てる方針だった。5月のJリーグヤマザキナビスコカップ アビスパ福岡戦でプロデビューを果たす。リーグ戦では第15節まで出場機会は与えられなかったが、8月28日の第16節ジェフユナイテッド市原戦でJリーグデビューを果たすと、2戦目となった第17節ガンバ大阪戦で待望のプロ初ゴールが生まれる。さらに9月7日第18節セレッソ大阪戦では1試合2ゴールを決める。その後の横浜フリューゲルス戦、清水エスパルス戦でもゴールを決め、プロ初ゴールから4試合連続ゴールを記録。結局ルーキーイヤーの出場は8試合5得点となったが、大器の片鱗は見せた。
1997年より後の長年お馴染みとなった背番号13に固定される。シーズン開幕からスタメンで起用され、Jリーグ開幕戦のヴィッセル神戸戦で初ゴールを決める。しかしその後は長くゴールから遠ざかる。FIFAワールドユースから帰国後は途中出場が多くなるが、8月23日の柏レイソル戦で2ゴールを決めるなど、短い出場時間ながらも結果を残し、最終的には前年を上回る8ゴールを記録。シーズン終了後のJリーグアウォーズではJリーグ新人王に選出される。また、天皇杯では手の負傷を抱えながらも出場を続け、決勝の横浜フリューゲルス戦ではチームの3点目を決め、鹿島のカップ戦二冠に貢献。
日本代表初選出を果たした1998年は開幕直前のゼロックススーパーカップ ジュビロ磐田戦で早速ゴールを決める。3月21日、Jリーグ開幕戦アビスパ福岡戦でシーズン初ゴールを決めると、その後開幕から3試合連続ゴールをマーク。そして4月4日の1stステージ第4節京都パープルサンガ戦では自身プロ初となるハットトリック達成を含む1試合4ゴールの大活躍を見せる。開幕からの連続ゴールも4試合連続となり、4試合で7ゴールという驚異のスタートを切る。その後は相手からのマークが厳しくなったこともあって6試合ゴールから遠ざかるが、5月5日1stステージ第11節ジュビロ磐田戦でシーズン二度目のハットトリックを記録。これにより、自身初のシーズン二桁得点に到達。一時的に不調からスタメンを外れた時期もあったが、最終的に22ゴールまで到達。鹿島の2度目のJリーグ制覇にも貢献し、Jリーグベストイレブンにも初選出。アントラーズのエースストライカーとしての地位を手にしたシーズンとなった。
1999年も開幕戦のジェフユナイテッド千葉戦でゴールを決め、3年連続で開幕戦ゴールを記録。この年も開幕5試合で5ゴールを決めるが、五輪代表での活動期間中で発覚した不祥事で批判を受けた影響もあって長いスランプに苦しむことになる。結局、リーグ戦のゴール数は9ゴールと一桁に終わり、前年を大きく下回ることになる。
2000年シーズンも前年の悪い流れを引きずり、1stステージは開幕からノーゴールが続く。チームが低迷していたこともあって批判を浴びる。5月6日の磐田戦において、開幕から10試合目にしてようやくシーズンの初ゴールが生まれる。2ndステージになると小笠原満男、中田浩二、本山雅志の1979年組が台頭し、レンタルバックの鈴木隆行が救世主となったことで鹿島は史上初となる三冠を獲得。その中でチームプレーに徹していたこともあるが、ゴール数は6ゴールと物足りない数字に終わる。この年あたりからファンからの風当たりが何かと強くなった。
2001年も開幕から5試合ノーゴールが続くが、4月29日J1リーグ1stステージ第6節浦和レッズ戦にて2ゴールを決める。5月6日の1stステージ第8節清水戦でゴールを決めるが、その後に2枚目のイエローカードを貰い、プロキャリア初の退場処分となる。ちなみにこの試合は両チーム合わせて3人が退場となった荒れた試合だった。それでも5月19日1stステージ第10節柏戦で汚名返上となる2ゴールを決めれば、出場停止と中断期間を挟んでの公式戦6試合連続ゴールをマークし、復調を果たす。7月14日1stステージ第14節ヴィッセル神戸戦でシーズン2度目の退場となる。2ndステージでチームが優勝争いを繰り広げる中、ゴールから遠ざかっていたが、11月10日の2ndステージ第13節柏戦で2ゴールを決め、さらに続く第14節東京ヴェルディ1969戦では優勝がかかった大事な試合で2試合連続での2ゴールを決め、鹿島をステージ優勝へ導き、チームのJ1リーグ連覇に貢献。ゴール数も1998年以来の二桁得点到達の12ゴールをマークし、自身にとって2度目となるJリーグベストイレブンに選出。さらに2001年度の日本年間最優秀選手賞も受賞。
2002年は日韓ワールドカップの中断期間までに1ゴールしか決められず、批判を受ける。リーグ再開後はワールドカップで負った負傷の影響もあって本調子ではなく、ゴール数も7ゴールに終わる物足りないシーズンとなった。
2003年は開幕前に負った負傷によって出遅れるが、シーズン初スタメンとなった5月5日1stステージ第7節横浜F・マリノス戦でシーズン初ゴールを記録。7月5日のホームの磐田戦を最後に初の海外移籍を果たす。
サンプドリア
2003年7月、イタリア・セリエAのUCサンプドリアに期限付きで移籍。セリエAに復帰したばかりのチームにおいてFWよりも左サイドハーフで起用されることが多く、これまでと違った役割を与えられたことでチームに馴染むことができず、残留争いを戦うチームの中で次第に出場時間が減っていき、限られた出番でも精彩を欠いたプレーが続いたことでファンから罵倒されてしまう。結局、初の海外挑戦は公式戦18試合出場ノーゴールと散々なものに終わる。シーズン終了後、クラブ側に再び契約する意思は無く退団となる。
メッシーナ
2004年7月、同じセリエAのFCメッシーナに期限付きで移籍。開幕前の8月22日、コッパ・イタリア1回戦アチレアレ戦でイタリアでの公式戦初ゴールを記録。10月26日、セリエAで初めて実現されたレッジーナとの海峡ダービーでは途中出場から決勝ゴールをアシストし、次の日の地元紙から称賛される。サンプドリア時代同様に本職ではない左サイドハーフでの起用を余儀なくされたものの、ダービーでの活躍が評価されて出場機会が増え、スタメンで起用されることが増える。だが、昇格組ながらも7位と大健闘したチームの中でゴールは遠く、2004-05シーズンもノーゴールに終わる。もっとも、首脳陣からの評価は高く、本人の希望もあってシーズン終了後、メッシーナへの完全移籍が発表される。ただし、メッシーナに移籍金満額を支払うだけの余裕はなく、実際は鹿島との共同保有となっていた。
2005-06シーズンはプレシーズンで負った負傷によって調整が遅れ、開幕後はチームが低迷していたこともあって出場機会が激減。次第に戦力外同然の扱いとなったことで2006年2月28日に契約を解除する形で退団。日本以上にFWに結果を求めるイタリアでは柳沢のプレースタイルはなかなか受け入れられず、サッカー文化の違いに馴染むことができないままセリエA44試合出場0ゴールという結果で海外挑戦を終える。
鹿島アントラーズ復帰
2006年3月、6月末までの期限付き移籍という形で鹿島アントラーズに復帰。復帰初戦となった3月5日のJ1リーグ開幕戦サンフレッチェ広島戦で自身3度目となるハットトリックを達成。完全復活を期待されたが、3月25日のジェフユナイテッド千葉戦で右足骨折の重傷を負い、2か月間の欠場に追い込まれる。ワールドカップ終了後に完全移籍に移行したものの、コンディションが整わないままドイツW杯に出場した影響もあって本来のプレーを取り戻せず、復帰1年目はわずか4ゴールと期待外れに終わる。
2007年は前年に引退した本田泰人の後を継いでキャプテンに就任。チームが開幕から5試合連続未勝利という危機を迎えた中でのJ1リーグ第6節横浜FC戦でチームを救う決勝ゴールを決める。続く第7節清水戦で2ゴールを決めるが、この試合で負傷し長期離脱を強いられる。7月15日のナビスコカップ準々決勝広島戦で85日ぶりに復帰し、2アシストを記録するが、欠場中に田代有三、興梠慎三が台頭したことでスタメンから外れることが多くなっていた。30歳となったことで若返りを図ろうとしていたチームの方針もあって居場所もなくなり、クラブに移籍を志願したと報じられるようになる。2008年元旦の第87回天皇杯決勝ではダニーロのゴールをアシストし、クラブに11個目のタイトルをもたらしたのを置き土産に鹿島を退団する。
京都サンガ
2008年、多くのクラブから獲得を打診された中で長年チームメイトだった秋田豊がコーチを務めていた縁でJ1リーグの京都サンガF.C.へ移籍する。移籍後2試合目、ホームでのデビュー戦となったJ1リーグ第2節大宮アルディージャ戦で移籍後初ゴールを決め、チームの勝利に貢献。新天地ではここ数年と比べてコンディションが格段に改善されており、後に本人が「サッカーの面白さをもう一回教えてもらった」と振り返るように全盛期を思わせる動きを披露する。夏場になるとさらに調子を上げ、7月のJ1リーグでは5試合で4ゴールを記録。11月8日、第31節横浜F・マリノス戦で2ゴールを決め、2001年シーズン以来となる二桁得点に到達。低迷するチームにとって残留のために重要となった終盤のラスト4試合では5ゴールを決めており、京都をJ1残留へ導く。1998年に次ぐキャリア2位の記録となるシーズン14ゴールをマークし、自身3度目となるJリーグベストイレブンに選出。完全復活を印象付けた1年となった。
2009年は開幕前に負った左膝の負傷の影響で調子が上がらず、4月に半月板の手術を受けることを決断し、チームを離脱する。5月30日のナビスコカップ FC東京戦で復帰すると、早速ゴールを決める。復帰してからは不動のレギュラーとして試合に出続け、チーム事情もあって本来のポジションではない二列目のサイドでプレー。得点数は減ったが、チームの中心選手として2年連続でのJ1残留に貢献。
2010年からは佐藤勇人が移籍したことによってキャプテンに就任。5月5日のJ1第10節清水戦でJリーグ通算100ゴール目を記録し、前日に第一子が誕生したことでゴールパフォーマンスとして「ゆりかごダンス」を披露。しかし、チームは最下位に沈むなど低迷し続け、浮上のキッカケを掴めないままJ2リーグへの降格が決定。ベテランとしてチームを引っ張ろうとしたが、自身も故障が重なり26試合3得点と不本意な結果となった。J2降格が濃厚になった11月5日にはクラブから戦力外通告を受ける。この決定に対し、サポーターからは疑問の声が上がり、公式サイトにて声明文が発表されるJクラブでは異例の事態となった。また、戦力外通告を受けた直後の古巣鹿島戦では、これまでの労をねぎらった横断幕が鹿島サポーターから掲げられ、交代時には大きな拍手が沸き起こった。
ベガルタ仙台
2011年、J1リーグのベガルタ仙台に完全移籍で加入。背番号はこれまでの13ではなく30となった。加入直後に東日本大震災によってリーグが中断となり、その期間中に違和感を抱いていた古傷の手術を決断。そのため新天地でのデビューは6月5日のナビスコカップ 柏戦までずれ込んだ。だが、復帰後はプレーに精彩を欠き、ノーゴールが続いていた。8月20日の名古屋戦では無人のゴールへのシュートを外してしまい、同じく京都から移籍してきた角田誠に試合中にも関わらず「交代させろ」と言われたこともあった。9月24日の第27節横浜FM戦で待望の移籍後初ゴールが生まれる。このゴールがこの年の唯一のゴールとなり、移籍1年目は期待に応えることはできなかった。
2012年から背番号を慣れ親しんだ「13」に変更。この年の仙台は開幕から快進撃を見せ、上位に顔を出すが、ウィルソンと赤嶺慎吾の2トップが絶好調だったことによって控えに回ることが多くなっていた。6月16日のJ1第14節コンサドーレ札幌戦で本拠地ユアテックスタジアムでの初ゴールを決めるなど、2ゴールを記録。この年は大きな怪我は無かったものの出場時間が少なく、シーズン中でゴールを決めた試合はこの札幌戦のみとなった。
2013年は開幕からしばらくは故障でメンバーから外れていたが、公式戦初先発となった4月10日のAFCチャンピオンズリーグ第4節FCソウル戦で得点を決め、仙台にACL初勝利をもたらす。自身も長いキャリアでこれがACLでの初ゴールとなった。。5月6日の名古屋戦でリーグ戦初得点を記録し、J1での連続ゴール記録を最多タイ記録となる16年に延ばす。夏場にコンディションをあげ、8月10日のJ1第20節では古巣鹿島を相手にゴールを決める。第34節FC東京戦で相手選手と交錯した際、右足小指を骨折し全治8週間と診断され、一足先にシーズン終了となる。
2014年は監督交代もあって開幕から出場機会に恵まれず、攻撃陣の不調で出番が回ってきた矢先、4月6日の浦和戦で槙野智章と競り合った際に左足腓骨を亀裂骨折し長期離脱する不運に見舞われる。復帰後も出場機会に恵まれなかったが、11月2日の第31節G大阪戦で試合終了間際に同点となるリーグ戦初得点を挙げ、J1リーグ戦17シーズン連続得点を記録。これにより、自身の持つJリーグ記録を更新。そして最終節を2日後に控えた12月4日、現役引退が発表される。
日本代表
超高校級FWと注目されていただけあって中学時代にはすでにU-15日本代表に選出されていた。高校時代に海外遠征をおこなった際、柳沢のことを知らない現地が子供が彼のプレーぶりを見てファンになるという逸話もある。
1997年6月にマレーシアで開催されたFIFAワールドユース選手権1997に出場するU-20日本代表に選出。このチームでは背番号10を付け、エースストライカーという位置づけになっていた。グループリーグ初戦のスペイン戦で大会初ゴールを決めると、第3戦のパラグアイ戦でもゴールを決めている。ラウンド16のオーストラリア戦で決勝ゴールを決め、日本の初のベスト8進出に貢献。準々決勝のガーナ戦でも3試合連続となるゴールを決めるが、チームは延長戦の末に敗れている。大会では5試合4得点とエースストライカーにふさわしい大活躍を見せ、中村俊輔と共に攻撃の中心を担っていた。
1998年2月、初のFIFAワールドカップ出場を目前とした日本代表に初選出。2月15日のオーストラリア戦でスタメンに抜擢され、20歳でフル代表デビューを飾る。4月1日の韓国戦でもスタメンに抜擢されるが、岡田武史監督からはゴールへの執着心の低さを指摘され、1998 FIFAワールドカップの最終メンバーからは外れている。
1999年からはフィリップ・トルシエ監督がフル代表とU-22代表を兼任することから、二つの代表で選出されるようになる。U-22代表ではエースとして期待されたが、長くスランプに陥りシドニーオリンピックアジア一次予選香港ラウンドではノーゴールに終わっていた。6月26日、日本ラウンド初戦のネパール戦で2ゴールを決め、ようやくスランプから脱出したと思われたが、その直後に合宿を抜け出して当時交際していたタレントの梨花と密会していたことが写真週刊誌によって報じられる。このことから、チームから強制的に外され、アジア最終予選ではメンバーに選ばれることはなかった。
2000年6月6日のハッサン二世国王杯 ジャマイカ戦で途中出場から待望のフル代表初ゴールを決める。6月18日、キリンカップサッカーのボリビア戦では2ゴールを決める。
2000年9月には、シドニーオリンピックに出場するU-23代表のメンバーに選出される。高原直泰との2トップでスタメンを張るが、グループリーグでは3試合連続無得点に終わっていた。準々決勝のアメリカ戦では前半30分に先制ゴールを決め、大会初ゴールを記録する。しかし、後半途中で交代となった後にチームはPK戦の末に敗れている。
2000年10月、レバノンで開催されたAFCアジアカップ2000のメンバーに選出。グループリーグ初戦のサウジアラビア戦でスタメンに起用され、先制ゴールを決める。以降は高原と西澤明訓が絶好調だったこともあり途中出場が続く。決勝のサウジアラビア戦では途中出場したものの、シュートミスと消極的なプレーがトルシエ監督の逆鱗に触れ、出場からわずか7分で交代させられる。
2001年になると、鹿島での好調ぶりを代表でも還元し、コンスタントにゴールを決めたことでレギュラーの座を掴むようになる。特に11月7日のホームに強豪イタリアを招いての親善試合では、左からの稲本潤一のクロスをダイレクトのボレーで合わせるスーパーゴールを決める。このゴールは柳沢の生涯のベストゴールとして語られており、2年後のセリエA移籍を実現させたゴールとも言われている。ワールドカップイヤーの2002年では、所属クラブで不振に陥り、代表でもイタリア戦以降の親善試合でノーゴールが続いていたことから批判的な声が増え、本大会のメンバー入りを疑問視する声も増えていた。
2002年6月、自国開催となった2002 FIFAワールドカップのメンバーに選出。周囲の声をよそにトルシエ監督は鹿島でコンビを組む鈴木隆行との2トップをグループリーグ3試合のレギュラーにチョイス。日本がワールドカップでの歴史的初勝利を掴んだ第2戦のロシア戦では、中田浩二からのフィードをダイレクトで叩いて稲本潤一の決勝ゴールをアシスト。しかし、初戦のベルギー戦で痛めた首の状態が悪化したことで第3戦のチュニジア戦は精彩を欠いて前半で交代となり、ラウンド16のトルコ戦は起用されなかった。ちなみに、中田英寿はこの大会のMVPに柳沢の名前を挙げている。
日韓ワールドカップ後、恩師ジーコが代表監督に就任してからも招集を受け、2003年10月8日のチュニジア戦では2001年のイタリア戦以来およそ2年ぶりとなる代表でのゴールを記録。続く10月11日のルーマニア戦でも2試合連続となるゴールを決めている。しかし、セリエAで出場機会を失っていた2004年になると序列が下がり、代表に招集されなくなる。7月のAFCアジアカップ2004もメンバー外となっている。
2005年3月、藤田俊哉の負傷離脱をうけておよそ8か月ぶりとなる代表復帰を追加招集という形で果たす。6月8日の2006 FIFAワールドカップ アジア最終予選の北朝鮮戦では、公式戦自体10か月ぶりとなるゴールを決めている。6月16日のFIFAコンフェデレーションズカップ2005初戦のメキシコ戦では難易度の高いゴールを決める。9月7日、ホンジュラスとの親善試合で2ゴールを決めるが、これが代表での最後のゴールとなった。
2006年はJリーグで負った右足骨折によって欠場が続いており、本大会のメンバー入りが危ぶまれていたが、代表への貢献度を重視するジーコ監督からの信頼は揺るがず、6月にドイツで開催された2006 FIFAワールドカップのメンバーに選出される。初戦のオーストラリア戦と第2戦のクロアチア戦では高原との2トップでスタメンに起用されるが、クロアチア戦で決定的なゴールチャンスでシュートミスを犯してしまう。さらに試合後に「急にボールが来たので」と語ったことで戦犯として大バッシングを受けることになる。この出来事は後にネットで「QBK」と呼ばれ、今日に至るまで語り継がれている。第3戦のブラジル戦では出番が訪れず、この大会を最後に代表に呼ばれることはなかった。
主な国際大会出場歴
- 1997年 U-20ワールドカップ
- 2000年 シドニーオリンピック
- 2000年 アジアカップ
- 2002年 日韓ワールドカップ
- 2005年 コンフェデレーションズカップ
- 2006年 ドイツワールドカップ
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
1996 | ![]() |
鹿島アントラーズ | Jリーグ | 8 | 5 |
1997 | ![]() |
鹿島アントラーズ | Jリーグ | 25 | 8 |
1998 | ![]() |
鹿島アントラーズ | Jリーグ | 32 | 22 |
1999 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 26 | 9 |
2000 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 26 | 6 |
2001 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 26 | 12 |
2002 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 27 | 7 |
2003 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 8 | 2 |
2003-04 | ![]() |
サンプドリア(loan) | セリエA | 15 | 0 |
2004-05 | ![]() |
メッシーナ(loan) | セリエA | 22 | 0 |
2005-06 | ![]() |
メッシーナ | セリエA | 7 | 0 |
2006 | ![]() |
鹿島アントラーズ(loan) | J1リーグ | 20 | 3 |
2007 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 19 | 5 |
2008 | ![]() |
京都サンガ | J1リーグ | 32 | 14 |
2009 | ![]() |
京都サンガ | J1リーグ | 22 | 4 |
2010 | ![]() |
京都サンガ | J1リーグ | 31 | 3 |
2011 | ![]() |
ベガルタ仙台 | J1リーグ | 17 | 1 |
2012 | ![]() |
ベガルタ仙台 | J1リーグ | 16 | 2 |
2013 | ![]() |
ベガルタ仙台 | J1リーグ | 20 | 3 |
2014 | ![]() |
ベガルタ仙台 | J1リーグ | 13 | 1 |
個人タイトル
引退後
引退した翌年の2015年より、鹿島アントラーズのコーチに就任。8年ぶりの古巣復帰となった。7月5日には、鹿島時代のチームメイトである中田浩二、新井場徹と合同で引退試合をおこなう。
2018年6月、チーム遠征から無断で離れ、都内のホテルで知人の女性と密会する現場を週刊女性にスクープ報道される。規律違反処分として自宅謹慎(無期限)を発表。同年6月8日付でコーチを辞任。
2019年1月、鹿島アントラーズのユースチームのコーチに就任することで現場に復帰。
2025年シーズンより、鹿島アントラーズのトップチームのコーチに就任。
プレースタイル
運動量とオフ・ザ・ボールの動きの質に優れたFWであり、現在でいうセカンドストライカータイプ。ゴール前での正確なプレーと前線でタメをつくれるポストプレーを得意とし、得点感覚も高く、守備への貢献も高い。動き出しの質も高く、周囲の選手を活かす動きに長けたオールラウンドな技巧派のストライカー。
特にオフ・ザ・ボールの動きの質は日本人でも歴代トップクラスと言われ、U-20代表時代から一緒にプレーしている中村俊輔は「ヤナギさんは動き出しが誰よりも速い。パスを出そうとしたらもう走り出している」と評している。執拗に裏を狙い続けるにあたって、何よりも大事にしていたのがパスの出し手との呼吸で普通の選手ならボールが出てこなければ動き出しをやめるときであっても、柳沢は何度でも繰り返し、パサーとイメージを共有するだけでなく、パサーの考えを引き出してもいる。ボールを持った選手によって動き方も変えており、どの選手、どのパスに対しても適応できた。プルアウェーの動きも得意で、相手DFの特徴も頭に入れているため、出し手としてはタイミングさえ気を付けておけば良かった。
このように何でもこなせることから、エゴむき出しで貪欲にゴールを狙うよりもよりゴールの可能性の高いプレーを選択するタイプであり、「ゴールを決めることだけがFWの仕事ではない」という考えを持っていた。しかし、FWはどうしてもゴールという数字が求められるポジションであるため、現役の間は周囲から求められるものと自分のプレーのこだわりのギャップに苦しめられ、批判を浴びることも多かった。
人物・エピソード
- 妻はモデルの小畑由香里であり、2003年12月24日に入籍。2010年に第一子が誕生し、2012年に第二子が誕生。
- 鹿島アントラーズや日本代表で背負うことの多かった背番号13は強化部門トップの鈴木満フットボールダイレクターによって決められたもので「西ドイツ代表FWゲルト・ミュラーにあやかってとにかく“点取り屋になってほしい”という思いで13番を与えました」と話している。
- 鹿島アントラーズや日本代表で背負うことの多かった背番号13は強化部門トップの鈴木満フットボールダイレクターによって決められたもので「西ドイツ代表FWゲルト・ミュラーにあやかってとにかく“点取り屋になってほしい”という思いで13番を与えました」と話している。
- 鹿島時代に当時の総監督であったジーコから「オフ・ザ・ボールの動きを身につけろ。シュート練習は一切やらなくていい」と命じられ、オフ・ザ・ボールに没頭した。
- イタリアに移籍していた時代、前線でボールを受けたのち、ダイレクトプレーで周囲との連係を作り出そうとするプレースタイルが好意的に見られず、イタリアのファンからは小洒落たプレーを揶揄した「レツィオーゾ(キザ)」と呼ばれていた。
- 日本代表で鈴木隆行と2トップを組んだ試合では負けた事が無い。
- 2006 FIFAワールドカップ クロアチア戦での「QBK」について、セオリー通りの左足インサイドでなく難易度の高い右足アウトサイドを選択したことがシュートミスに繋がった。2001年11月のイタリア戦でアウトサイドからのボレーシュートを決めたときの記憶があの場面でのアウトサイド選択につながったと後に振り返っている。
関連動画
関連項目
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