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柳沢敦やなぎさわ あつし1977年5月27日 - )とは、富山県出身の元サッカー選手サッカー導者である。
サッカー日本代表。現・鹿島アントラーズトップチームコーチ

現役時代のポジションはFW。177cm75kg。利き足は右足。

概要

ボールいところでの動きやスペースの使い方に優れたフォワード19902000年代日本サッカー界を代表する選手の1人で、JリーグではJ1通算ゴールランキング10位となる108得点2016年12月21日現在)、サッカー日本代表では歴代得点ランキングexit13位となる17得点2016年12月21日現在)を記録している。

富山第一高校の選手として注を集め、1996年鹿島アントラーズプロデビュー。翌1997年にはJリーグ新人王を獲得。2003年サンプドリアに移籍、2004年メッシーナに移籍とセリエAクラブチームに移籍するもあまり活躍できなかった。2006年鹿島に復帰、2008年には京都サンガF.C.へ移籍。力として活躍するも、2010年シーズン京都J2降格を機に退団。同年、ベガルタ仙台へ移籍。

日本代表としては1998年2月デビューし、FIFAワールドカップには2002年2006年の2度出場。消極的なプレーが何かと批判され、2006 FIFAワールドカップ第2戦クロアチア戦で決定的なシュートミスをし、試合後の「急にボールが来たので」という迷言から「QBK」という言葉が生まれている。しかし、技巧FWとしてのオールラウンドな力は非常に高く、フィリップ・トルシエジーコといった外国人の代表監督からもその力を高く評価されていた。

2014年シーズン終了をもって現役を引退する。引退後、2015年より鹿島アントラーズコーチに就任。不祥事によって一時退任するが、その後復帰している。

経歴

生い立ち

1977年5月27日富山県射水市出身。幼い頃に母親を亡くしており、と共に父親が男手一つで育てている。当時、父親は運送会社で働いていたが、後にラーメン店を開業。小学1年生のときに地元の小杉SSCに入団しサッカーをはじめる。中学生になるとFCひがしジュニアユースに所属。この頃、U-15日本代表に選出されるなど注を集めるようになる。

1993年富山第一高校に進学し、サッカー部に所属。1年生の頃から将来の大器としてJリーグ関係者からは注されており、高校時代は3年連続で国体および高校総体への出場を経験。1年後輩には後にカターレ富山監督になる小田切治がいた。10番を背負ってキャプテンを務めた第74回全高校選手権では、すでにアンダー世代の代表に選出され、エースストライカーとして活躍していたことから超高校級ストライカーの触れ込みで大会の玉として注をされる。初戦となった2回戦の守山北戦では2アシストの活躍でチーム勝利に導く。3回戦静岡学園戦ではGK雄太から待望の選手権初ゴールを決めるが、チームPK戦の末に敗れている。くから卒業後のプロ入りが有望視され、当時Jリーグ13クラブからオファーを受ける争奪戦が繰り広げられたが、最終的に自分の好きなチームであり、ジーコの存在も決め手となり、鹿島アントラーズ入団を決意する。

鹿島アントラーズ

1996年Jリーグ鹿島アントラーズに正式に入団。当時、大物ルーキーとしてメディアファンからの関心度が高かったものの、ジョアンカルロス監督は急がず、着実に育てる方針だった。5月Jリーグヤマザキナビスコカップ アビスパ福岡戦でプロデビューを果たす。リーグ戦では第15節まで出場機会は与えられなかったが、8月28日の第16節ジェフユナイテッド市原戦でJリーグデビューを果たすと、2戦となった第17節ガンバ大阪戦で待望のプロゴールが生まれる。さらに9月7日第18節セレッソ大阪戦では1試合2ゴールを決める。その後の横浜フリューゲルス戦、清水エスパルス戦でもゴールを決め、プロゴールから4試合連続ゴール記録。結局ルーキーイヤーの出場は8試合5得点となったが、大器の片鱗は見せた。

1997年より後の長年お染みとなった背番号13に固定される。シーズン開幕からスタメンで起用され、Jリーグ開幕戦のヴィッセル神戸戦で初ゴールを決める。しかしその後は長くゴールから遠ざかる。FIFAワールドユースから帰後は途中出場が多くなるが、8月23日柏レイソル戦で2ゴールを決めるなど、短い出場時間ながらも結果を残し、最終的には前年を上回る8ゴール記録シーズン終了後のJリーグアウォーズではJリーグ新人王に選出される。また、天皇杯では手の負傷を抱えながらも出場を続け、決勝の横浜フリューゲルス戦ではチームの3点を決め、鹿島カップ戦二冠に貢献。

日本代表初選出を果たした1998年は開幕直前のゼロックススーパーカップ ジュビロ磐田戦でゴールを決める。3月21日Jリーグ開幕戦アビスパ福岡戦でシーズンゴールを決めると、その後開幕から3試合連続ゴールマーク。そして4月4日1stステージ第4節京都パープルサンガ戦では自身プロ初となるハットトリック達成を含む1試合4ゴールの大活躍を見せる。開幕からの連続ゴールも4試合連続となり、4試合で7ゴールという驚異のスタートを切る。その後は相手からのマークが厳しくなったこともあって6試合ゴールから遠ざかるが、5月5日1stステージ第11節ジュビロ磐田戦でシーズン二度ハットトリック記録。これにより、自身初のシーズン二桁得点に到達。一時的に不調からスタメンを外れた時期もあったが、最終的に22ゴールまで到達。鹿島の2度Jリーグ制覇にも貢献し、Jリーグベストイレブンにも初選出。アントラーズのエースストライカーとしての地位を手にしたシーズンとなった。

1999年も開幕戦のジェフユナイテッド千葉戦でゴールを決め、3年連続で開幕戦ゴール記録。この年も開幕5試合で5ゴールを決めるが、五輪代表での活動期間中で発覚した不祥事批判を受けたもあって長いスランプに苦しむことになる。結局、リーグ戦のゴール数は9ゴールと一桁に終わり、前年を大きく下回ることになる。

2000年シーズンも前年の悪い流れを引きずり、1stステージは開幕からノーゴールが続く。チームが低迷していたこともあって批判を浴びる。5月6日の磐田戦において、開幕から10試合にしてようやくシーズンの初ゴールが生まれる。2ndステージになると小笠原満男中田浩二、本山志の1979年組が台頭し、レンタルバック鈴木隆行救世主となったことで鹿島は史上初となる三冠を獲得。その中でチームプレーしていたこともあるが、ゴール数は6ゴールと物足りない数字に終わる。この年あたりからファンからの当たりが何かと強くなった。

2001年も開幕から5試合ノーゴールが続くが、4月29日J1リーグ1stステージ第6節浦和レッズ戦にて2ゴールを決める。5月6日1stステージ第8節清水戦でゴールを決めるが、その後に2枚イエローカードを貰い、プロキャリア初の退場処分となる。ちなみにこの試合は両チーム合わせて3人が退場となった荒れた試合だった。それでも5月19日1stステージ第10節戦で汚名返上となる2ゴールを決めれば、出場停止と中断期間を挟んでの公式戦6試合連続ゴールマークし、復調を果たす。7月14日1stステージ第14節ヴィッセル神戸戦でシーズン2度の退場となる。2ndステージチーム優勝争いを繰り広げる中、ゴールから遠ざかっていたが、11月10日2ndステージ第13節戦で2ゴールを決め、さらに続く第14節東京ヴェルディ1969戦では優勝がかかった大事な試合で2試合連続での2ゴールを決め、鹿島ステージ優勝へ導き、チームJ1リーグ連覇に貢献。ゴール数も1998年以来の二桁得点到達の12ゴールマークし、自身にとって2度となるJリーグベストイレブンに選出。さらに2001年度の日本年間最優秀選手賞も受賞。

2002年日韓ワールドカップの中断期間までに1ゴールしか決められず、批判を受ける。リーグ再開後はワールドカップで負った負傷のもあって本調子ではなく、ゴール数も7ゴールに終わる物足りないシーズンとなった。

2003年は開幕前に負った負傷によって出遅れるが、シーズン初スタメンとなった5月5日1stステージ第7節横浜F・マリノス戦でシーズンゴール記録7月5日ホームの磐田戦を最後に初の海外移籍を果たす。

サンプドリア

2003年7月イタリアセリエAUCサンプドリアに期限付きで移籍。セリエAに復帰したばかりのチームにおいてFWよりも左サイドハーフで起用されることが多く、これまでと違った役割を与えられたことでチーム染むことができず、残留争いを戦うチームの中で次第に出場時間が減っていき、限られた出番でも精を欠いたプレーが続いたことでファンから罵倒されてしまう。結局、初の海外挑戦は公式戦18試合出場ノーゴールと散々なものに終わる。シーズン終了後、クラブ側に再び契約する意思はく退団となる。

メッシーナ

2004年7月、同じセリエAFCメッシーナに期限付きで移籍。開幕前の8月22日コッパ・イタリア1回戦アチレアレ戦でイタリアでの公式戦初ゴール記録10月26日セリエAで初めて実現されたレッジーナとのダービーでは途中出場から決勝ゴールアシストし、次の日の地元から称賛される。サンプドリア時代同様に本職ではない左サイドハーフでの起用を余儀なくされたものの、ダービーでの活躍が評価されて出場機会が増え、スタメンで起用されることが増える。だが、昇格組ながらも7位と大健闘したチームの中でゴールは遠く、2004-05シーズンノーゴールに終わる。もっとも、首からの評価は高く、本人の希望もあってシーズン終了後、メッシーナへの全移籍が発表される。ただし、メッシーナに移籍金満額を支払うだけの余裕はなく、実際は鹿島との共同保有となっていた。

2005-06シーズンはプレシーズンで負った負傷によって調整が遅れ、開幕後はチームが低迷していたこともあって出場機会が減。次第に戦力外同然の扱いとなったことで2006年2月28日契約を解除する形で退団。日本以上にFWに結果をめるイタリアでは柳沢プレースタイルはなかなか受け入れられず、サッカー文化の違いに染むことができないままセリエA44試合出場0ゴールという結果で海外挑戦を終える。

鹿島アントラーズ復帰

2006年3月6月末までの期限付き移籍という形で鹿島アントラーズに復帰。復帰初戦となった3月5日J1リーグ開幕戦サンフレッチェ広島戦で自身3度となるハットトリックを達成。復活を期待されたが、3月25日ジェフユナイテッド千葉戦で右足骨折の重傷を負い、2か間の欠場に追い込まれる。ワールドカップ終了後に全移籍に移行したものの、コンディションが整わないままドイツW杯に出場したもあって本来のプレーを取り戻せず、復帰1年はわずか4ゴールと期待外れに終わる。

2007年は前年に引退した本田泰人の後を継いでキャプテンに就任。チームが開幕から5試合連続未勝利という危機を迎えた中でのJ1リーグ第6節横浜FC戦でチームを救う決勝ゴールを決める。続く第7節清水戦で2ゴールを決めるが、この試合で負傷し長期離脱を強いられる。7月15日ナビスコカップ準々決勝広島戦で85日ぶりに復帰し、2アシスト記録するが、欠場中に田代有三、興梠慎三が台頭したことでスタメンから外れることが多くなっていた。30歳となったことで若返りを図ろうとしていたチームの方針もあって居場所もなくなり、クラブに移籍を志願したと報じられるようになる。2008年元旦の第87回天皇杯決勝ではダニーロのゴールアシストし、クラブに11個タイトルをもたらしたのを置き土産鹿島を退団する。

京都サンガ

2008年、多くのクラブから獲得を打診された中で長年チームメイトだった秋田豊がコーチを務めていた縁でJ1リーグ京都サンガF.C.へ移籍する。移籍後2試合ホームでのデビュー戦となったJ1リーグ第2節大宮アルディージャ戦で移籍後初ゴールを決め、チーム勝利に貢献。新地ではここ数年とべてコンディションが格段に改善されており、後に本人が「サッカーの面さをもう一回教えてもらった」と振り返るように全盛期を思わせる動きを披露する。場になるとさらに調子を上げ、7月J1リーグでは5試合で4ゴール記録11月8日、第31節横浜F・マリノス戦で2ゴールを決め、2001年シーズン以来となる二桁得点に到達。低迷するチームにとって残留のために重要となった終盤のラスト4試合では5ゴールを決めており、京都J1残留へ導く。1998年に次ぐキャリア2位記録となるシーズン14ゴールマークし、自身3度となるJリーグベストイレブンに選出。復活を印付けた1年となった。

2009年は開幕前に負った左膝の負傷の調子が上がらず、4月半月の手術を受けることを決断し、チームを離脱する。5月30日ナビスコカップ FC東京戦で復帰すると、ゴールを決める。復帰してからは不動のレギュラーとして試合に出続け、チーム事情もあって本来のポジションではない二列サイドプレー得点数は減ったが、チームの中心選手として2年連続でのJ1残留に貢献。

2010年からは佐藤勇人が移籍したことによってキャプテンに就任。5月5日J1第10節清水戦でJリーグ通算100ゴール記録し、前日に第一子が誕生したことでゴールパフォーマンスとして「ゆりかごダンス」を披露。しかし、チームは最下位に沈むなど低迷し続け、浮上のキッカケを掴めないままJ2リーグへの降格が決定。ベテランとしてチームを引っろうとしたが、自身も故障が重なり26試合3得点と不本意な結果となった。J2降格が濃厚になった11月5日にはクラブから戦力外通告を受ける。この決定に対し、サポーターからは疑問のが上がり、公式サイトにて明文が発表されるJクラブでは異例の事態となった。また、戦力外通告を受けた直後の古巣鹿島戦では、これまでの労をねぎらった横断幕が鹿島サポーターから掲げられ、交代時には大きな拍手が沸き起こった。

ベガルタ仙台

2011年J1リーグベガルタ仙台全移籍で加入。背番号はこれまでの13ではなく30となった。加入直後に東日本大震災によってリーグが中断となり、その期間中に違和感を抱いていた古傷の手術を決断。そのため新地でのデビュー6月5日ナビスコカップ 戦までずれ込んだ。だが、復帰後はプレーに精を欠き、ノーゴールが続いていた。8月20日名古屋戦では人のゴールへのシュートを外してしまい、同じく京都から移籍してきた角田に試合中にも関わらず「交代させろ」と言われたこともあった。9月24日の第27節横浜FM戦で待望の移籍後初ゴールが生まれる。このゴールがこの年の一のゴールとなり、移籍1年は期待に応えることはできなかった。

2012年から背番号を慣れしんだ「13」に変更。この年の仙台は開幕から快進撃を見せ、上位に顔を出すが、ウィルソン赤嶺の2トップが絶好調だったことによって控えに回ることが多くなっていた。6月16日J1第14節コンサドーレ札幌戦で本拠地ユアテックスタジアムでの初ゴールを決めるなど、2ゴール記録。この年は大きな怪かったものの出場時間が少なく、シーズン中でゴールを決めた試合はこの札幌戦のみとなった。

2013年は開幕からしばらくは故障でメンバーから外れていたが、公式戦初先発となった4月10日AFCチャンピオンズリーグ第4節FCソウル戦で得点を決め、仙台ACL勝利をもたらす。自身も長いキャリアでこれがACLでの初ゴールとなった。。5月6日名古屋戦でリーグ戦初得点記録し、J1での連続ゴール記録を最多タイ記録となる16年に延ばす。場にコンディションをあげ、8月10日J1第20節では古巣鹿島を相手にゴールを決める。第34節FC東京戦で相手選手と交錯した際、右足小骨折し全治8週間と診断され、一足先にシーズン終了となる。

2014年監督交代もあって開幕から出場機会に恵まれず、攻撃の不調で出番が回ってきた矢先、4月6日浦和戦で槙野智章と競り合った際に左足腓骨折し長期離脱する不運に見舞われる。復帰後も出場機会に恵まれなかったが、11月2日の第31節G大阪戦で試合終了間際に同点となるリーグ戦初得点を挙げ、J1リーグ戦17シーズン連続得点記録。これにより、自身の持つJリーグ記録更新。そして最終節を2日後に控えた12月4日、現役引退が発表される。

日本代表

超高校級FWと注されていただけあって中学時代にはすでにU-15日本代表に選出されていた。高校時代に海外遠征をおこなった際、柳沢のことを知らない現地が子供が彼のプレーぶりを見てファンになるという逸話もある。

1997年6月マレーシアで開催されたFIFAワールドユース選手権1997に出場するU-20日本代表に選出。このチームでは背番号10を付け、エースストライカーという位置づけになっていた。グループリーグ初戦のスペイン戦で大会初ゴールを決めると、第3戦のパラグアイ戦でもゴールを決めている。ラウンド16のオーストラリア戦で決勝ゴールを決め、日本の初のベスト8進出に貢献。準々決勝のガーナ戦でも3試合連続となるゴールを決めるが、チームは延長戦の末に敗れている。大会では5試合4得点エースストライカーにふさわしい大活躍を見せ、中村俊輔と共に攻撃の中心を担っていた。

1998年2月、初のFIFAワールドカップ出場を前とした日本代表に初選出。2月15日オーストラリア戦でスタメンに抜され、20歳でフル代表デビューを飾る。4月1日韓国戦でもスタメンに抜されるが、岡田武史監督からはゴールへの執着心の低さを摘され、1998 FIFAワールドカップの最終メンバーからは外れている。

1999年からはフィリップ・トルシエ監督フル代表とU-22代表を兼任することから、二つの代表で選出されるようになる。U-22代表ではエースとして期待されたが、長くスランプに陥りシドニーオリンピックアジア一次予選香港ラウンドではノーゴールに終わっていた。6月26日日本ラウンド初戦のネパール戦で2ゴールを決め、ようやくスランプから脱出したと思われたが、その直後に合宿を抜け出して当時交際していたタレントと密会していたことが写真週刊誌によって報じられる。このことから、チームから強制的に外され、アジア最終予選ではメンバーに選ばれることはなかった。

2000年6月6日ハッサン二世国王ジャマイカ戦で途中出場から待望のフル代表初ゴールを決める。6月18日キリンカップサッカーボリビア戦では2ゴールを決める。

2000年9月には、シドニーオリンピックに出場するU-23代表のメンバーに選出される。高原直泰との2トップでスタメンをるが、グループリーグでは3試合連続得点に終わっていた。準々決勝のアメリカ戦では前半30分に先制ゴールを決め、大会初ゴール記録する。しかし、後半途中で交代となった後にチームPK戦の末に敗れている。

2000年10月レバノンで開催されたAFCアジアカップ2000メンバーに選出。グループリーグ初戦のサウジアラビア戦でスタメンに起用され、先制ゴールを決める。以降は高原西澤明訓が絶好調だったこともあり途中出場が続く。決勝のサウジアラビア戦では途中出場したものの、シュートミスと消極的なプレートルシエ監督逆鱗に触れ、出場からわずか7分で交代させられる。

2001年になると、鹿島での好調ぶりを代表でも還元し、コンスタントゴールを決めたことでレギュラーの座を掴むようになる。特に11月7日ホームに強イタリアを招いての善試合では、左からの稲本潤一クロスダイレクトボレーで合わせるスーパーゴールを決める。このゴール柳沢の生涯のベストゴールとして語られており、2年後のセリエA移籍を実現させたゴールとも言われている。ワールドカップイヤーの2002年では、所属クラブで不振に陥り、代表でもイタリア戦以降の善試合でノーゴールが続いていたことから批判的なが増え、本大会のメンバー入りを疑問視するも増えていた。

2002年6月、自開催となった2002 FIFAワールドカップメンバーに選出。周囲のをよそにトルシエ監督鹿島コンビを組む鈴木隆行との2トップグループリーグ3試合のレギュラーチョイス日本ワールドカップでの歴史的初勝利を掴んだ第2戦のロシア戦では、中田浩二からのフィードをダイレクトいて稲本潤一の決勝ゴールアシスト。しかし、初戦のベルギー戦で痛めた首の状態が悪化したことで第3戦のチュニジア戦は精を欠いて前半で交代となり、ラウンド16のトルコ戦は起用されなかった。ちなみに、中田英寿はこの大会のMVP柳沢名前を挙げている。

日韓ワールドカップ後、恩師ジーコが代表監督に就任してからも招集を受け、2003年10月8日チュニジア戦では2001年イタリア戦以来およそ2年ぶりとなる代表でのゴール記録。続く10月11日ルーマニア戦でも2試合連続となるゴールを決めている。しかし、セリエAで出場機会を失っていた2004年になると序列が下がり、代表に招集されなくなる。7月AFCアジアカップ2004もメンバー外となっている。

2005年3月藤田俊哉の負傷離脱をうけておよそ8かぶりとなる代表復帰を追加招集という形で果たす。6月8日2006 FIFAワールドカップ アジア最終予選の北朝鮮戦では、公式戦自体10かぶりとなるゴールを決めている。6月16日FIFAコンフェデレーションズカップ2005初戦のメキシコ戦では難易度の高いゴールを決める。9月7日ホンジュラスとの善試合で2ゴールを決めるが、これが代表での最後のゴールとなった。

2006年Jリーグで負った右足骨折によって欠場が続いており、本大会のメンバー入りが危ぶまれていたが、代表への貢献度を重視するジーコ監督からの信頼は揺るがず、6月ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップメンバーに選出される。初戦のオーストラリア戦と第2戦のクロアチア戦では高原との2トップでスタメンに起用されるが、クロアチア戦で決定的なゴールチャンスシュートミスを犯してしまう。さらに試合後に「急にボールが来たので」と語ったことで戦犯として大バッシングを受けることになる。この出来事は後にネットで「QBK」と呼ばれ、今日に至るまで語り継がれている。第3戦のブラジル戦では出番が訪れず、この大会を最後に代表に呼ばれることはなかった。

主な国際大会出場歴

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
1996 鹿島アントラーズ Jリーグ 8 5
1997 鹿島アントラーズ Jリーグ 25 8
1998 鹿島アントラーズ Jリーグ 32 22
1999 鹿島アントラーズ J1リーグ 26 9
2000 鹿島アントラーズ J1リーグ 26 6
2001 鹿島アントラーズ J1リーグ 26 12
2002 鹿島アントラーズ J1リーグ 27 7
2003 鹿島アントラーズ J1リーグ 8 2
2003-04 サンプドリア(loan) セリエA 15 0
2004-05 メッシーナ(loan) セリエA 22 0
2005-06 メッシーナ セリエA 7 0
2006 鹿島アントラーズ(loan) J1リーグ 20 3
2007 鹿島アントラーズ J1リーグ 19 5
2008 京都サンガ J1リーグ 32 14
2009 京都サンガ J1リーグ 22 4
2010 京都サンガ J1リーグ 31 3
2011 ベガルタ仙台 J1リーグ 17 1
2012 ベガルタ仙台 J1リーグ 16 2
2013 ベガルタ仙台 J1リーグ 20 3
2014 ベガルタ仙台 J1リーグ 13 1

個人タイトル

引退後

引退した翌年の2015年より、鹿島アントラーズコーチに就任。8年ぶりの古巣復帰となった。7月5日には、鹿島時代のチームメイトである中田浩二、新井合同引退試合をおこなう。

2018年6月チーム遠征から断で離れ、都内のホテルで知人の女性と密会する現場を週刊女性にスクー報道される。規違反処分として自宅謹慎(期限)を発表。同年6月8日付でコーチを辞任。

2019年1月鹿島アントラーズユースチームコーチに就任することで現場に復帰。

2025年シーズンより、鹿島アントラーズトップチームコーチに就任。

プレースタイル

運動量とオフ・ザ・ボールの動きの質に優れたFWであり、現在でいうセカンドストライカータイプゴール前での正確なプレー前線でタメをつくれるポストプレーを得意とし、得点感覚も高く、守備への貢献も高い。動き出しの質も高く、周囲の選手を活かす動きに長けたオールラウンドな技巧ストライカー

特にオフ・ザ・ボールの動きの質は日本人でも歴代トップクラスと言われ、U-20代表時代から一緒にプレーしている中村俊輔は「ヤナギさんは動き出しがよりも速い。パスを出そうとしたらもう走り出している」と評している。執拗に裏を狙い続けるにあたって、何よりも大事にしていたのがパスの出し手との呼吸で普通の選手ならボールが出てこなければ動き出しをやめるときであっても、柳沢は何度でも繰り返し、パサーイメージを共有するだけでなく、パサーの考えを引き出してもいる。ボールを持った選手によって動き方も変えており、どの選手、どのパスに対しても適応できた。プルアウェーの動きも得意で、相手DFの特徴も頭に入れているため、出し手としてはタイミングさえ気を付けておけば良かった。

このように何でもこなせることから、エゴむき出しで貪欲にゴールを狙うよりもよりゴールの可性の高いプレーを選択するタイプであり、「ゴールを決めることだけがFWの仕事ではない」という考えを持っていた。しかし、FWはどうしてもゴールという数字められるポジションであるため、現役の間は周囲からめられるものと自分のプレーのこだわりのギャップに苦しめられ、批判を浴びることも多かった。

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柳沢敦

25 ななしのよっしん
2014/12/04(木) 18:59:04 ID: +4zjMoz7S/
引退前に地元富山プレーしないかなと思ってたけど結局なかったか残念
お疲れさまでした

>>21
例え部分的だろうが『最高峰』の動きが出来る選手が『腐るほど』いるのはおかしいと思わないの?
『腐るほど』いるならもう『最高峰』にはならないよね?
柳沢を認めたくないのか知らんが、そういうおかしな言葉の使い方の馬鹿にした言い方は見ていていろんな意味でいい気がしないな
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26 ななしのよっしん
2014/12/28(日) 00:49:15 ID: 7L+gXW86sk
なぎさわやっと引退かおせーよ宇宙開発
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27 ななしのよっしん
2015/01/05(月) 22:08:28 ID: Mm3B0UAknw
コーチとして鹿島に復帰・・・だと!?
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28 ななしのよっしん
2015/11/20(金) 22:34:58 ID: YPB/ZQJEwX
最近偶然、動画仙台VS名古屋戦みたけど、なんか性格と才が一致していないと思ったわ。多分ゴール際でボール持っても、ファーストチョイスシュートじゃない。それでいて絶妙な立ち位置でボールを貰ってしまうという......
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29 ななしのよっしん
2016/12/26(月) 21:53:57 ID: kEaWCxTvhj
ザックジャパン全盛期柳沢が居たら面かっただろうなあ
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30 ななしのよっしん
2018/07/20(金) 00:03:07 ID: zSlUmOk3cp
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31 ななしのよっしん
2020/11/02(月) 00:25:09 ID: N9G9FHt7FU
日本サッカーレベルの低さをまざまざと見せ付けてもらった記憶
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32 ななしのよっしん
2022/12/22(木) 22:21:03 ID: X9Vppa8rCc
QBK名言を世に残した人物。
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33 ななしのよっしん
2023/09/08(金) 08:48:44 ID: nKsn4TkTd1
サッカーオタクスター選手けるワイは通みたいなノリなんなん・・・?
どうせ運動音痴のキモデブだろお前ら
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34 ななしのよっしん
2023/09/08(金) 11:59:19 ID: hrVV8M+096
>>28
QBKって言えたりするのもなんというかメンタリティストライカーじゃないんだよな
チームプレーFW代表格の大迫勇也前田遼一だって狙える場面はシュート最優先で狙うのに柳沢はそうじゃない
かと言って2列で使うほどプレーの幅があるわけではない
となるとセカンドトップに置くしかないんだけど理想系のインザーギになれるほどゴールへの執着はなかったな
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