桂文枝とは、上方落語の高座名である。
ここでは、1について解説する。2については当該記事参照。
五代目桂文枝について
五代目桂文枝(ぶんし)とは上方落語の四天王といわれた大名人である。とはいえ、今日では六代・桂文枝を襲名した桂三枝と紛らわしいので、五代目文枝、あるいは旧名の小文枝と呼ばれることもあるが、世間では六代・文枝は未だに三枝と呼ばれ、文枝、あるいは小文枝だけで通ることも多い。本名は長谷川多持(たもつ)。
なお、高座名が桂文枝となったのは1992年からであり、それまで長い間、桂小文枝として知られた。
概要
上方落語の名門、本家の桂一門の出であり、弟子に桂三枝(後の六代・桂文枝)、桂文珍、桂小枝、4代目桂小文枝(桂きん枝)、桂あやめなどがいる。また、弟子の面倒見が良く、売れずに悩んでいた弟子に対し、的確な助言を与え、後で花を咲かせた噺家も少なくない。
出身は大阪市の中心地天神橋六丁目、宮大工の父親とともに市内を転々とした。戦前には叔父に連れられ釜山に住んだこともあったが、すぐに帰阪。その後は叔父の斡旋もあり、大阪市交通局に就職。そこで同僚であった桂米之助の口利きで4代目桂文枝に入門する。ただし、当初は落語に興味はなく、あくまで舞踊を習うためであった。その後は市職員と二足草鞋で桂あやめの高座名で舞台に立つが、間もなく落語家として一本立ちしていく。だが、分裂騒動などの紆余曲折あって囃子方への転向なども経て3代目桂小文枝となった。
吉本興業に所属し、漫才ブーム全盛期の中、落語家の地位が貶められていた時期でも決して腐らず、日々技に邁進し、陰で吉本を支えた功労者でもある。また、1971年には立川談志と二人会を開催、虎ノ門にて開催した。これがきっかけで桂小文枝の支持者が東京でも生まれることになる。
1992年に桂文枝を襲名。1997年には紫綬褒章、2003年には旭日小綬章を受賞するも、2005年に体調を崩し、肺癌から併発した呼吸不全で死去した。享年74。
芸風は、演技中のにこやかな表情と相俟って、とにかく明るい陽の属性で知られる。かなりの演技派でもあり、丁稚や女役、果ては幽霊や動物なども得意とし、メリハリのある、通りの良い声が特徴的である。また、アレンジの天才であり、冗長な中だるみしやすい部分を端折り、うまく時間内にまとめる名人でもあった。この芸風は桂文珍などに受け継がれている。
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