フォーミュラ3000(F3000)とは、かつて存在したレースカテゴリである。数字はエンジンの排気量(3000cc)を意味する。
F1直下に位置し、国際選手権と各国のローカル(国内)選手権が存在した。
1985年にヨーロッパF2選手権が国際F3000選手権へ移行したのを皮切りに、各国の国内トップフォーミュラが追従する動きを見せた。
本記事では以下の2つについて解説する。
他にはイギリスとイタリアで「F3000」を冠した国内選手権が行われていた。
1980年代初頭、ヨーロッパF2選手権は特定のエンジンメーカーのワークスチームが勝利を独占しバランスが崩れたうえ、参戦費用が高騰する等の問題を抱えていた。一方で当時のF1は多くのチームがコスワースDFVエンジンからより戦闘力の高いターボエンジンへ切り替える過渡期であり、中古のDFVが大量に余っていた。
これらの状況から、DFVを転用したローコストな選手権としてF3000が提案され、1985年から開始された。
当初はシャシー・エンジンともに多数のメーカーが参入し、多数のドライバーやチームがF1へ昇格するなど盛況を見せていた。
一方で、競争の激化によるコストの高騰が再発しチームを悩ませていた。
コスト抑制策として1996年からワンメイク制度が導入され、全チームが同一のシャシー(ローラ)、エンジン(ジャッド / ザイテック)、タイヤ(エイボン)を使用して争った。これに伴いいくつかのF1チームはF3000チームを支配下に置いて若手ドライバーの育成を図り、両カテゴリの結びつきは強まっていく。1999年まではレースによっては40台を超えるエントリーが見られる[1]など、選手権は隆盛を極めた。
しかしワンメイク化によりF1マシンとの性能差が拡大し、ステップアップしても適応に苦労し十分な結果を残せないケースが増える。F1チームはF3の有望な若手を囲い込む方針へ切り替えるなど、選手権の注目度は下がり参戦台数も減少する。2003年以降は20台を割り込む寂しさであった。
「下位カテゴリからの飛び級が流行し、F1直下のカテゴリが下火になる」現象はヨーロッパF2の末期と重なり、ステップアップカテゴリの宿命ともいえる。
これらの問題点を解決できないまま、2004年を最後に選手権は終了する。F1直下のカテゴリはGP2に引き継がれ、よりF1に近い性能のマシンによるワンメイクレースへと姿を変えた。
年 | 選手権名 | |
---|---|---|
1948~1959 | 無し(単発のレース、 一部開催されない年あり) |
|
1960 | F2選手権(正式名称不明) | |
1961~1966 | 無し(単発のレース) | |
1967~1984 | ヨーロッパF2選手権 | |
1985~2004 | 国際F3000選手権 | |
2005~2008 | GP2 | |
2009~2012 | FIA F2選手権 | |
2013~2016 | ||
2017~ | FIA F2選手権 |
1987年、全日本F2選手権を引き継ぐ形で全日本F3000が開催された[2]。
発足当初はバブル景気とF1ブームが重なり、国内のベテランや元F1ドライバー、若手外国人ドライバーが多数参戦するハイレベルな争いが繰り広げられた。本シリーズからF1にステップアップした選手も多い。
シャシーは国際F3000と同様のメーカーに加え、童夢が製造していた。
国際選手権と同様に技術競争が加速し、特にタイヤ戦争が過熱する。予選用タイヤを履いた場合のコーナリングスピードはF1を凌ぐレベルに達していたとされる一方で、行き過ぎた技術向上は「タイヤメーカーが勝敗を決める」「F1用タイヤと性質が大きく異なるため、F1昇格後は走り方を変える必要がある」などの弊害を引き起こした。
バブル崩壊後は次第に参加台数・観客動員数が減り始め、1996年の国際F3000のワンメイク化を契機としてマルチメイクの維持を掲げた「フォーミュラ・ニッポン」へ改称される。
年 | 選手権名 |
---|---|
1973~1977 | 全日本F2000選手権 |
1978~1986 | 全日本F2選手権 |
1987~1995 | 全日本F3000選手権 |
1996~2012 | フォーミュラ・ニッポン |
2013~ | スーパーフォーミュラ |
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最終更新:2024/12/23(月) 15:00
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